2013年10月21日
「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(福澤諭吉「脱亜論」『福澤諭吉全集 第10巻』岩波書店、1960年、240頁)
近代日本における人種差別的な誹謗という、人を傷つける言葉はどこから来たのだろうか。その来歴をやや足早にたどってみたい。
明治維新以後、富国強兵のような近代化路線として日本でも植民地主義が採用された。「脱亜入欧」という言葉があるが、「脱亜」の意味自体は現在でも誤解されているきらいがある。くわえて「脱亜論」についての論争のなかには、福澤諭吉本人の筆によるものなのか疑問視する声もある。
福澤本人は「入欧」という表現は使用していない。また1881年以来、朝鮮が独力で文明開化を成し遂げるために、特殊密接な関係を作りあげたいとの願いから朝鮮国内の改革派に対して援助を行っていた福澤本人の東アジアへの当時のまなざしは、いわゆる蔑視のそれではなかった。冒頭の文章はむしろ、朝鮮の文明開化に熱中した福澤の構想が甲申事変を受けて敗北したことの宣言ととらえるのが妥当である。したがって、「脱亜入欧」と直接結びつけられるのは福澤にとっては迷惑至極な話だ。
だが、ここで重要なのは誰が書いたのかではなく、『時事新報』という戦前の五大新聞の1つに社説として掲載されたことである。現在でも福澤と「脱亜」にまつわる議論は、右派の政治家から帝国主義批判をしたいだけの研究者まで、歴史的な文脈を無視して曲解して使用する例があとを絶たない。
このようにして戦前から現在まで福澤本人の意図とは別に「脱亜」という言葉が一人歩きしはじめ、浮遊した言葉は大陸に拡大しつつあった当時の日本の帝国主義的な主張を下支えする術語として利用されていったのである。そして帝国の言葉には、帝国の支配する側としてのまなざしが伴うようになった。
支配する側による蔑視のまなざしは、当時の映画にそのまま投影されている。たとえば、1939年の李香蘭主演の『東遊記』は満州の住民に日本を紹介するために満州映画協会(満映)が制作したプロパガンダ映画だが、日本人の優秀さを顕示し、被支配者の側が劣等であることを滑稽に描いた作品である。
同年の満映作品『白蘭の歌』にも中国の後進性を嘲弄するシーンが幾度となく見受けられる。
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