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憲法によって国家が作られる――超満員の「立憲デモクラシーの会」シンポジウムから

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

 「立憲デモクラシーの会」が設立され、去る4月25日に法政大学で設立記念シンポジウムが開かれた。定員300人の教室は超満員。入りきれない聴講者のために上の階のおなじく定員300人の、これまた超満員の教室でテレビ中継という盛況だった。

 きっかけはもちろん安倍晋三首相主導による「戦後レジームからの脱却」なるものが、着々と推進されている事態への憂慮である。「安倍政権は……憲法と民主政治の基本原理を改変することに着手した」と設立趣旨にも記されている。特定秘密保護法、武器輸出3原則の閣議決定による改変、そして近いうちに予想される集団的自衛権の打ち出しなどが、それである。

 また内閣法制局や公共放送へのゆるやかだが、それだけに効果的な影響力の確保なども含まれよう。ありていにいえば、いろいろとオブラートに包んでいた本音がかなり見えて来たことである。もちろん、批判が噴き出ると、あるいはアメリカなどから不快感が示されると、また一生懸命オブラートに包み直しているようだが。

 当日は、まずは憲法学者の愛敬浩二氏と政治学者の山口二郎氏が、立憲主義の意義について、あるいはデモクラシーと立憲主義の人権を介した緊密な関係について語った。

 日本改造をめざす人々には改憲論者もいれば、改憲は無理と見て憲法骨抜きで手を打とうという人もいるが、両氏の報告でおおきくやり玉にあがったのは、それらの人々に共通に見られる、信じられないほどシニカルな物言いである。

 「憲法は絶対王政への抵抗から始まった」のだから、西洋のことで日本とは関係ない、といった自民党国会議員の発言や、「日本に憲法学は要らない」といった趣旨の北岡伸一氏の発言が紹介され、国会議員や大学の先生とは思えない彼らの拙劣な思考が俎上に載せられた。憲法は、場所を問わず、伝統や歴史による野蛮や抑圧からの離脱の成果なのであって、西洋だから、といった議論は通じない。

 したがって、自民党改憲草案の前文「日本国民は良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」といった文章も、憲法理論以前の幼稚さであることは明らかである。

 なにを「良き伝統」と見るかは、現代ならば人によってさまざまに違いがあろう。さらに、現行の日本国憲法97条の、基本権は変更および撤回不能とする永久条項(「侵すことのできない永久の権利」)が自民党の草案にないことも指摘された。いかに国会の多数派であっても、変えてはならないデモクラシーの原理を葬ろうとする禁じ手への警戒が設立趣意書で表明されているのも、それゆえである。

 憲法学者の西原博史氏は「片道切符」という表現をある論文で使っておられたが、まさに片道切符への恐怖が、この会の設立の動機であろう。

 また、パネル・ディスカッションで、憲法学者の青井未帆氏は、自衛隊のぎりぎりの正当化は、憲法9条をやりすごして、いかなる法にも先立って主権国家として持っている「はずの」自衛権を根拠にしてこれまでなされてきた、これは国会と政府による苦心の正当化であった、この前提に立つならば、この前提を掘り崩す、つまり主権国家の最小限の自衛権という原理をつぶす集団的自衛権は成り立ちようがない、と憲法学者らしい有効度の高い議論をされた。

 中国研究の毛利和子氏は、中国は列強に侵食された100年以上にわたる「国恥」へのリベンジにたちあがっている、安倍氏は戦後レジームに対するリベンジにたちあがっている、今はこの二つのリベンジがぶつかる非常に危険な状況である、と指摘された。私なりに忖度すれば、その危機の中で9条が、いやそれどころか、憲法全体が無効化される危険にさらされているということなのかもしれない。

 最後に、政治学者大竹弘二氏は、法律における解釈立法の重要性を認めながら、だからこそ基本的人権の「解釈による骨抜き」の危険性を説いた。同時に立憲主義とデモクラシーを簡単に同一視してはならないという氏の発言も貴重だった。

 デモクラシーは、誰もが対等の権利を持って政治に参加できることである。代表民主主義であっても、その基本は変わらないはずだ。そうした政治参加と、立憲主義にもとづく法の支配とは、結合することが望ましいが、理論的には別ものである。

 特に、憲法が裁判所であれ、憲法学者であれ、一部の専門家の事実上の解釈独占権に委ねられることは問題である。「私が決める」という安倍首相の発言は、そうした事態へのルサンチマンとして、憲法学者が反省的に捉える必要があるという氏の発言は、気に入らない人も多いかもしれないが、なるほどと思わせるものがあった。

 また大竹氏は、現在多くの先進国において、グローバル化のなかの経済的、時には軍事的プレッシャーが実際に政治の動向を決めており、それによって憲法原理が空洞化され始めている、いわゆるポストデモクラシーの問題に触れた。日本では、「戦後レジームからの脱却」(かつて言われた「逆コース」)とこのポストデモクラシーの両者が重なり合って進行しているのかもしれない。

 ただ全体を聞いて、素人として思ったのは、多くの発言が、国家による介入を制限するために憲法がある、という前提を素朴に立てていることだった。そういう機能が憲法にあるのは、例えば、法定手続きなしの刑罰はあり得ないこと(31条)や国会開会中の国会議員の不逮捕特権(50条)ひとつをとっても、事実だし、歴史的にもそうした面があるが、むしろ、「憲法 ・・・ログインして読む
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筆者

三島憲一

三島憲一(みしま・けんいち) 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

大阪大学名誉教授。博士。1942年生まれ。専攻はドイツ哲学、現代ドイツ政治の思想史的検討。著書に『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』『戦後ドイツ その知的歴史』、訳書にユルゲン・ハーバーマス『近代未完のプロジェクト』など。1987年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞、2001年、オイゲン・ウント・イルゼ・ザイボルト賞受賞。

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