大槻慎二
2014年05月17日
自分が作った本のことなので、話題は編集裏話めいたり、あるいは著者についてであったり、また本の宣伝だったりと、とりとめのない文章になることをまずお許し願いたい。
中川村というのは、長野県の南部、天竜川に削られてできた伊那谷と呼ばれる大きな谷のほぼ中ほどにある。東は南アルプス、西は中央アルプスの3000メートル級の山々に囲まれた風光明媚な土地だ。
もともとは関西人である曽我さんの場合もそうだが、伊那谷というところは、他所から来た人を篤く迎え入れる、懐の深いところがある。それもあって、近年では都会を捨てて移住してくる若い家具職人やアーティストが増えている。また、TPP反対の大規模なデモを村ぐるみで行ない、注目を集めた。
……というようなことは実は後から知ったので、最初は中川村も曽我さんのことも全く意識になく、ましてや彼の本を作ることになろうとは、夢にも思わなかった。
発端は「美しい村」という言葉の響きである。
期せずして曽我さんと同じく、中途退社して伊那谷に移り住んだのは、東日本大震災が起こった翌月のことだ。
そうしてまったく謂れなく、放射能の犠牲になった飯舘村を、物心の両面でごく初期から支援した大鹿村や、村の祭りに飯舘の方々を招待した中川村がこの伊那谷にあり、三つの村がともに「日本で最も美しい村」連合に属していることを知った。
その時、咄嗟に頭に浮かんだのは「美しい国」という対極にある言葉だった。そしてまた、われわれが本当に欲しているのは「美しい国」と「美しい村」のどちらだろう、という設問だった。
それとまったく文脈を異にして、気になっていることがあった。「○○しないといけない」という言い回しである。私見だが、これは毎日決まって記者会見をしていた橋下徹氏のコメントを新聞記者が紹介するとき、必ずといっていいほど出てくる語尾で、最初は橋下氏のものだけだったのが、次第にほかの政治家や著名人のコメントのなかにも散見されるようになった。
「○○する必要がある」「○○すべきだ」、あるいは「○○は検討に値する」などニュアンスを伝える言葉は様々あるはずなのだが、「○○しないといけない」という言い方には、それらのニュアンスをすべて切り捨ててしまう幼なさがある。
ちょうど「真逆」というこれまでになかった言葉が、あれよあれよという間に巷に広がったのと期を一にしているのではないだろうか。どちらも響きとしては汚くて、なるべくならば使いたくない言葉だ。
これらはいわゆる「流行語」ほどは意識されないにせよ、集団的無意識の中にじわじわと伝播していく力を持っている。
それから「遺憾である」という常套句。そんな統計はないだろうが、おそらく政府が発するコメントの中にこの言葉が現れる頻度は、ここ2、3年のうちに格段に上がっているのではないだろうか。身内の政治家の不祥事であったり、他国の元首の発言に対して使われるものだが、これも都合の悪いところをすっぽりと隠蔽する野蛮な力を持っている。
そんな折、中川村の村長である曽我逸郎さんの文章に出会った。
村のホームページに随時掲出されているものだが、主義主張はもとより、まずその文体(スタイル)に惹かれた。為政者として持つべき誠実さに惹かれた。
元来、編集者としては文芸畑を歩んできた身には、正直いうと手に余るテーマだったが、この人の本を作ってみたいと思った。
本書の根底にある曽我さんの現状認識は、「あとがき」の以下の文章に顕著だ。
「今、東日本大震災の被災者の方々、中でも放射能汚染を逃れて、ふるさとを離れて暮らさざるを得ない人たちや多くの若者など、たくさんの人たちが将来の展望を見出せずにいる。そんな中、安倍政権は、違う方向に熱心だ。特定秘密保護法、武器の輸出容認、解釈改憲による集団的自衛権、国家安全保障基本法、原発の再稼働や輸出の模索など、その性急ぶりは尋常ではない。何かに憑かれているかのようにさえ見える。やろうとしていること自体の危険性はもとより、進め方に丁寧さがなく、危うくてならない。言葉も、その場を乗り切るのは巧みだが、誠実さに欠ける。世界から尊敬される日本でありたいのに、このままでは信頼されない国になってしまう」
まさにその通りで、〈政治家の言葉〉という観点で言えば、安倍首相のそれは粗雑というよりも、この人は言葉そのものにまったく重きを置いていないのではないか、とさえ思われる。
あるいはまた、戦後、教育と政治が一定の距離を保ってきたことに「マインドコントロール」という言葉を使う。おそらく真意は戦後教育そのものをそう言いたいのだろうが、オウム真理教信者になぞらえられたら、その教育で育ってきたわれわれは、一体どう反応すればいいのだろう。
そして最近では、訪日したオバマに釘を刺されるやいなや「筆舌に尽くしがたい思いをされた慰安婦の方々のことを思うと、本当に胸が痛む」とのコメントを出す。以前、政府によって改変されたNHKの従軍慰安婦番組のオリジナル映像を観たことがあるが、内閣官房副長官時代にその信じがたい改変の指示を出した張本人の、どの口がそれを言うか、と驚くばかりである。
もし解釈改憲で集団的自衛権が行使され、戦場で自衛官が亡くなったとしたら、そんな実のない言葉で弔われる死者は、果たして成仏できるだろうか。
加えて当然のことながら、それら言葉に無頓着な政治家たちがこぞっていじろうとしている憲法は、すべて言葉で出来ているのだ。
一方、曽我村長の言葉は、周囲の批判に晒されることを覚悟で繰り出される、血の通ったものだ。そうして血の通った言葉は平明なようでいて、受け取ったものに思わぬ発見をもたらす。
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