2014年05月24日
立憲主義からの反対論は確かに重要であり、そのような視角からの議論には敬意を表したい。この観点からは、たとえば安保法制懇が首相の私的諮問委員会に過ぎないことも問題になりうるし、その中に憲法学者が1人しかいないことも問題になりうるだろう。
たとえば、法制懇の北岡伸一座長代理が自民党の会合で、「安保法制懇に正統性がないと(新聞に)書かれるが、首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない」と述べ、メンバーに集団的自衛権の行使に反対する人がいないという報道についても「自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本のあしき平等主義だ」と語った(5月19日)ことが、話題になっている。
このように、多くの優れた憲法学者の意見を聞くことなく、国民的な熟議のプロセスを欠き、極めて重大な論点について明確な公約に基づく国政選挙を行うことなしに、与党協議だけで閣議決定をしようという姿勢は、民主主義という観点からも問題になりうる。
そこで、公明党が集団的自衛権行使にどうしても賛成しない場合、それを正統化するために内閣が解散・総選挙を行うという可能性に言及する報道も現れている。しかし、先述したように、民主主義的な選挙をしたからといって、立憲主義に違反する政策が正統化できるわけではないのである。
ただ、近代立憲主義は日本国憲法だけについて成立しているのではなく、いわゆる近代的憲法を持つ国家一般に当てはまる考え方である。これに対し、日本国憲法の三大原理と言われる基本的人権、国民主権、平和主義の中で、平和主義は他の多くの憲法にはなく、日本国憲法の独自性をなす。
だから、たとえば基本的人権を侵害するような立法を行おうとするのならば、それは明確に近代立憲主義に反しているが、こと平和主義についてはそれは必ずしも初めから自明ではない。
そこで、平和主義に関して憲法解釈の変更をしようとする場合、それが立憲主義に反するかどうかは、新しい憲法解釈の内容によって変わるだろう。もし日本国憲法(の平和主義)で定めている権力への縛りを形骸化させるものならば、それは立憲主義に反していると主張できるが、そうでないならば立憲主義違反とは言えないかもしれない。
さらには、仮に日本国憲法から平和主義が失われても、人権や民主主義が守られていれば、立憲主義は守られていると強弁する人もいるかもしれないのである。
だから、やはりここで求められているのは憲法の平和主義そのものに関する議論である。集団的自衛権行使という内容に立ち入らずに立憲主義の観点からの議論だけになってしまうと、憲法の平和主義に関する実質的な議論の比重が薄れてしまいかねないだろう。
問題は、あくまでも憲法解釈の変更が、自衛隊ないし個別自衛権の使用を認める従来の政府解釈に比して、平和主義、そしてそれをめぐる立憲主義に反しているかどうか、なのである。
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