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拉致問題の日朝合意、北朝鮮のイデオロギー的変化と「日本人問題」

佐藤優 作家、元外務省主任分析官

 5月29日、日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、拉致問題を含む二国間関係の正常化に向けた交渉を行うという合意文書を発表した。日朝国交正常化に向けた画期的な一歩となる文書だ。

 合意文書の冒頭には、こう記されている。

<双方は、日朝平壌宣言にのっとって、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために、真摯に協議を行った。
 日本側は、北朝鮮側に対し、昭和20年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した。
 北朝鮮側は、過去北朝鮮側が拉致問題に関して傾けてきた努力を日本側が認めたことを評価し、従来の立場はあるものの、全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施し、最終的に、日本人に関する全ての問題を解決する意思を表明した。
 日本側は、これに応じ、最終的に、現在日本が独自に取っている北朝鮮に対する措置(国連安全保障理事会決議に関連して取っている措置は含まれない)を解除する意思を表明した>

 <北朝鮮側は、過去北朝鮮側が拉致問題に関して傾けてきた努力を日本側が認めたことを評価し、従来の立場はあるものの>という外交上の修辞がついているものの、「拉致被害者」と明示した上で、再調査を認めている。北朝鮮が日本に対して大幅に譲歩している。

 さらに合意文書では、日本、北朝鮮が行うべきことについて、それぞれ7項目を箇条書きにしている。北朝鮮側の取る措置で興味深いのは、<第3に、全ての対象に対する調査を具体的かつ真摯に進めるために、特別の権限(全ての機関を対象とした調査を行うことのできる権限)が付与された特別調査委員会を立ち上げることとした>という合意をしていることだ。

 北朝鮮は、故金正日国防委員会委員長の時代に「拉致問題は解決済み」という立場を表明した。軍の特殊工作部隊やインテリジェンス機関を含むすべての機関を調査する権限を持っているのは、金正恩国防委員会第一書記しかいない。要するに金正恩の政治主導のもとで拉致問題の解決を北朝鮮は文書で合意したのである。

4月8日、朝鮮労働党中央委員会政治局会議に出席する金正恩第1書記。朝鮮中央通信が同9日に報じた2014年4月8日、朝鮮労働党中央委員会政治局会議に出席する金正恩第1書記。朝鮮中央通信が4月9日に報じた
 この背景には、北朝鮮のイデオロギー転換があると筆者は見ている。

 この観点から興味深いのが、2014年、平壌の外国文出版社から上梓された金正恩の論集『最後の勝利をめざして』(朝鮮・平壌、外国文出版社、2014年)における以下の記述だ。

<限りなく謙虚な金正日同志は、金正日主義はいくら掘り下げても金日成主義以外のなにものではないとして、わが党の指導思想を自身の尊名と結びつけることを厳しく差し止めました。
 今日、わが党と朝鮮革命は金日成・金正日主義を永遠なる指導思想として堅持していくことを求めています>(8頁)

 金正日は、「金正日主義という呼称は用いるな」と厳命しているにもかかわらず、金正恩は、それを無視して金日成・金正日主義を朝鮮労働党と北朝鮮国家の指導思想としている。要するに、金正恩は、遺訓政治の枠を超えた、新たな判断をしているのだ。

 この原則は、拉致問題にも適用可能だ。父の金正日が「あの問題は終わった」と言っても、金正恩はその遺訓にとらわれないフリーハンドを持っている。

 日本側はこのような北朝鮮のイデオロギー的変化を踏まえた上で、巧みな交渉を行ったのである。

 国際関係で「合意は拘束する」というのが大原則だ。もっとも北朝鮮の場合、「約束はしたけれども、約束を守るという約束はしていなかった」と主張をすることがある。このような独自の主張をさせないように外交交渉を行うことがわが政府の課題だ。そのためには、北朝鮮をめぐる国内外の変化をおさえておく必要がある。

 国内的には、張成沢の粛清だ。「拉致問題をはじめとする悪事は、朝鮮労働党と国防委員会に根を張っていた、反革命、反党の張成沢一味によるものだ」という口実で、金正恩体制にわざわいが及ばない形で、「日本人問題」を処理する可能性が生じたことだ。

 国際的要因は、2つある。

 第1は、北朝鮮と中国の関係が急速に悪化していることだ。

 これは、張成沢の粛清とも緊密に関係してくる。

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