メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[1]真価を問われる公明党 民衆のための平和か、党のための自己保身か

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 「政治は、可能性追求の技術です。従って、われわれは、高き理想の追求と冷徹なリアリズムに徹する姿勢とを共に持ち、「現実」と「理想」の両立を図る架橋作業に努めます。」(「公明党『綱領』」平成六年十二月五日決定、平成十年十月二十四日一部改正)

 1990年代以降、国政の重要な諸局面でキャスティング・ボートを握ってきた公明党だが、今日ほど同党の一挙手一投足が注目されている時期はないだろう。それは、現在の政局における最大の課題である集団的自衛権をめぐって、公明党が1964年の結党以来一貫して日本の民衆にむかって訴え続けてきた「平和主義」という同党の基本原則が、その根底から問われているためである。

公明党結党大会=1964年11月17日、東京・両国の日本大学講堂公明党結党大会=1964年11月17日、東京・両国の日本大学講堂
 集団的自衛権の行使容認にかんする解釈改憲の是非について、これまで公明党が掲げてきた理想としての平和主義を選ぶのか、それとも自民党の解釈改憲を受け入れてでも連立を維持するという自己保身を選ぶのか。

 この二つの選択肢を両天秤にかけて、もし後者を選んだ場合、それは公明党にとって、そして日本の政治にとって何を意味するのだろうか。

 云うまでもなく国家としての戦後日本は、日本国民と世界に対して平和主義という高邁な理想を堅持してきた。

 この平和主義は、単なる理想主義ではない。いわば、現実を可能な限り理想の次元まで引き上げようと試みる「理想主義的現実主義」という高度な政治努力の積み重ねによって、現在の戦後日本が存在しているのだ。

 それは、他国からいかなる謗(そし)りを受けようとも、専守防衛のための組織たる自衛隊を諸外国との戦闘行為に引きずり込ませないことで、今日まで一人の人間も殺めないという、先人たちの築き上げてきた国際的信頼の積み重ねでもある。

 だが、今後の公明党の選択の如何によっては、戦後日本がさまざまな局面で守り抜き、これまで我々にとって日常的に現実のものとしてきた平和主義という理想――それは日本国民ばかりか世界中の人々にとっての理想でもある――の息の根を止める引き金を、皮肉にも結党時から平和主義政党をセルフ・アイデンティティとしていた公明党が引くことになるのだ。

 つまり、戦後日本において少なくとも今日まで現実化していた人類の理想を葬り去った政党として、これからの人類史に記憶されることになりかねないのである。

 もちろん、現在の解釈改憲、ひいてはすすんで憲法九条の放棄に突き進もうとする自民党の説得に、政治という可能性追求の技術をもちいて成功をおさめられるのであれば、現在の自民との連立が維持される道も残されていないわけではない。

 だが、自民党の説得に失敗してまでこのまま唯々諾々と連立を維持するのであれば、それは公明党の綱領が掲げる「高き理想の追求」と「冷徹なリアリズムに徹する姿勢」の「両立を図る架橋作業」の名を借りた、単なるご都合主義の自己保身にすぎないとの批判は避けられないだろう。むろん自己保身という姿勢は、結党以来の55年体制下での立ち位置でもあった、保守でも革新でもない「中道」の名にも値しない。

 さらに、もし自民党の説得に失敗してもなお連立政権に留まるという選択肢をとった場合、その支持母体である創価学会の信者らに対する背信行為と受け取られることも必至であろう。

 実際、先般の衆院選や参院選、そして東京都知事選では、近年の公明党の方針に疑問を持ち、連立を組んでいる自民党ではなく、他党の候補に投票した創価学会員が多数おり、特定秘密保護法の強行採決に際しても、概して批判的であった。

 こうした理想なき「安定は希望」という名の迎合などさっさと一蹴して、元来、公明党が掲げていた「平和主義」や「民衆の側に立つ」といった精神へともう一度立ち戻るべきではないだろうか。

 公明党の党綱領では、国連中心主義にもとづいた国際貢献が謳われているが、国際貢献の手段が集団的自衛権を容認し、自衛隊を海外派遣することではなく、より効果的な国際貢献の手法があることは、戦後の創価学会ならびに公明党の国際貢献活動が身をもって示しているところである。

 たとえば、これまで池田名誉会長が実際に身を投じた冷戦期の中ソへの平和のための民間外交や、1973年からの「核廃絶1000万署名運動」とその結実である1982年の公明党として同署名の国連事務総長への提出、また同年からの国連広報局との協力で世界24ヶ国で開催した「核の脅威展」、そして1997年からの核兵器全廃条約の締結を求める署名運動「アボリション2000」など、非軍事分野での人的交流を通じた国際貢献こそが、公明党と創価学会にとっての真の国際貢献活動ではなかったのだろうか。

 くわえて、もし今回、自民党におもねっての集団的自衛権の容認という「軍事貢献」こそが国際貢献だと正当化するのであれば、それはこれまで結党以来の公明党ならびに、戦前から今日まで創価学会の積み重ねてきたものの否定に他ならない。

 公明党がこのまま集団的自衛権の解釈改憲におけるストッパーとなり得ないにもかかわらず自民党との連立を維持する姿勢をみせるならば、党綱領では「現実」と「理想」の両立を図る架橋作業に努めると掲げておきながら、実際には理想を捨てていよいよ保身に走ったと、支持者ならびに日本国民、そして世界から受け取られても仕方がないだろう。

 その時、党支持者のみならず多くの日本に住まう平和を愛する者たち、すなわち民衆が公明党に対して現在抱いている「平和政党たる公明党が良心を発揮してくれるのではないか」という一縷の希望は、取り返しのつかないほどの絶望へと変わるだろう。

 現在の政治局面において、国際政治の「理想」と「現実」のなかにあって「汝殺すなかれ」という人類の理想を実現してきた日本という国が今日の世界はもちろん、過去から未来に至る人類史のなかで誇るべき歴史に終止符を打つ決定の引き受け手となるか否かは、今後の公明党の決断に懸かっているといっても過言ではない。

 公明党の政策担当者による選択の如何によって、後世の日本国民と世界中の人々、そして人類の歴史が同党に対してどのような評価をするのかを、同党とその支持者、そして支持母体である創価学会は大いに自覚してほしいものである。この人類史における決定の重みを充分に理解し、同党が賢明な選択を行うことを切に願ってやまない。

 おそらく公明党およびその支持母体である創価学会は、一般民衆からのこうした要望は百も承知であろう。それでいて、なぜ公明党は民衆の期待に応える「平和主義」の貫徹ではなく、自民党への追従ともとられる姿勢をとらざるを得なくなったのだろうか。(つづく)