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報道の自由と民主主義を守る(下)――屈服させようとする力への戦い

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 そのころの朝日新聞の、社会正義の為の戦いは目覚しいものがあり、日本新聞史上に永く輝やかしい記録をとどめるだろう。最近偶然の機会にこのころの記事を読んだので、新聞週間最終日にあたり、敢てここにしるす。(吉村公三郎、「たたかった朝日」『朝日新聞』1956年10月7日)

 過去の日本政府の側による「報道の自由」への介入といえば、1918年8月25日に起きた「白虹事件」という言論弾圧事件が思い浮かぶ。

 日本で未曾有の民衆騒乱事件とされる米騒動は、当初富山県下の漁村の主婦たちがはじめた運動だったが、やがて困窮者救済要求へと発展していった。各紙の積極報道によって全国主要都市のみならず、農村でもデモ行動が組織されるようになった。

白虹事件の引き金となった関西新聞社通信社大会の記事(1918年8月26日付大阪朝日新聞夕刊拡大「白虹事件」の引き金となった大阪朝日新聞夕刊(1918年8月26日付)
 この米騒動にさいして、元陸軍大将で朝鮮総督だった寺内正毅内閣は、騒動の拡大防止を理由に一切の新聞報道の禁止令を出した。

 この措置に対抗すべく日本各地の新聞社が大阪に大同団結して当時の大阪朝日新聞社社長だった村山隆平を座長に関西記者大会を開き、86社の代表166名が参加して「禁止令の解除及び政府の引責辞職」を要求し、その様子を大阪朝日新聞が報じた。

 だが、記事内で使用されていた「白虹日を貫けり」という表現が、劉向『戦国策』や司馬遷『史記』のなかでは兵乱が起こる兆候を示す語句だとの理由で、朝憲紊乱罪(国家の存立基盤を不法に乱す罪)に当たるとして、新聞法違反のかどで検察に起訴された。

 まだ漢籍が教養だった時代といえばそうだが、『平治物語』にも出てくる表現で、また昭和に入ってからも井伏鱒二が『荻窪風土記』で二・二六事件の前日に「白虹」を見たと述べているくだりがある。

 「白虹事件」について、冒頭で紹介した映画監督の吉村公三郎(吉村の父は元大阪朝日新聞の政治記者でのちに広島市長)の論説では、当時「予(かね)て事有れかしとねらっていた〔政府〕当局はこれをひっかけた」と回想している。

 当時の政府にとって「白虹日を貫けり」は、長谷川如是閑や大山郁夫を擁し、大正デモクラシーを牽引していた「一大敵国の観さえあった朝日新聞をたたきつぶす絶好の口実だった」(『朝日新聞』1979年1月25日朝刊)のである。

 朝日新聞が狙われた遠因としては、寺内正毅総理本人が当時流行したビリケン人形に似ているとされ、またその政治姿勢が「非立憲主義」であったことから掛詞で「ビリケン内閣」とも呼ばれた寺内内閣成立以来、朝日新聞が率先して同内閣の反動性や反立憲主義的な姿勢を非難し、中国への介入やシベリア出兵等に反対していたことがあげられる。

 吉村によれば、過去にも「政府はあらゆる手段を尽くして、朝日の筆鋒を殺がんとし、ときには暴力団を使嗾(しそう)して社長を襲撃せしめたりしたが、更にひるまなかった」という。暴力による圧力をかけられても、なおも屈することのなかった同紙を、発行禁止処分にもち込もうとしたのが「白虹事件」における寺内内閣の思惑であった。

 文字通り新聞社の息の根を止められる「発禁処分」という最悪の事態を回避するために、同社の村山社長は社を守るために断腸の思いで政府への恭順の態度を示し、大正デモクラシーの牽引役で当時の朝日の執筆者であった長谷川如是閑や大山郁夫、花田大五郎、丸山幹冶(丸山眞男の父)らを追放した。

 それでも右翼団体が村山社長の人力車を襲撃するなどの暴力事件が相次いだため村山社長は辞職し、白虹事件後の朝日はリベラルな論調を以前よりも控えざるを得なくなった。朝日新聞社の社史にも以下のようにある。

1918.8.25 「白虹事件」の発端となる記事を掲載。大朝夕刊記事にある「白虹日を貫けり」の字句が安寧秩序紊乱に当たるとして発売禁止。日本の言論弾圧史上、特筆すべき「白虹事件」に発展した。責任をとって社長村山龍平が辞任、編集幹部も退社

 その後の右傾化と同社への弾圧はなおも以下のように続く。

1936. 2.26 反乱軍に倒された活字棚2・26事件。反乱軍が東朝社屋を襲撃青年将校が率いた部隊は政府要人を襲撃した後、一部が東朝社屋へ乱入、社屋2階文選工場の活字棚がひっくり返された。緒方竹虎主筆が部隊指揮者と面会。この日の夕刊発行を見合わせた

 そしてついに戦時中の1941年にはヒットラーの『我が闘争』が、朝日新聞社から『要約マインカンプ』という書名で出版されるまでに至った。

 なんとか会社は生き残ったが「白虹事件」後の朝日は、政府権力と対峙し「言論と表現の自由」を守る報道機関としての機能を次第に奪われ、失っていった。そして言論による右傾化の歯止めがまったく利かなくなったその頃までには、朝日のみならず日本国全体がすべてファシズムにのみ込まれていたのである。

 こうした言論弾圧について、政治哲学者ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』のなかで「全体主義的支配はその初期の段階においては、一切の政治的反対派の排除を比類のない徹底性をもっておこなう」と論じている。第二次安倍政権以降、ナチスによる全体主義支配の初期段階、あるいは戦前の日本と同様のことが、今まさに起きつつあるのではあるまいか。

 というのも、政権にとって耳障りな官邸前の声を「テロ」と名指しした2013年11月29日の石破発言や(WEBRONZA「自民・石破茂幹事長の『デモ』=『テロ』発言の危うさ――民主主義は国会の外にもある」)、ヘイトスピーチ規制と国会周辺の抗議規制をどさくさに紛れて行おうとした2014年月28日の高市発言(WEBRONZA「国会周辺でデモをする自由(上)――『高市発言』が示した”徴候”」)、そして今回の朝日新聞報道をめぐる総理の「日本の名誉」発言は、韓国のソウル中央地検による産経新聞への事情聴取と同様に、いずれも民主主義国家にとって最重要の価値である「言論と表現の自由」を脅かすことで人々やメディアを萎縮させ、民主主義そのものを窒息させるものだからだ。

 いつまでこの国で自由な主張を発表し続けることができるのだろうかと、筆者も不安を感じながらこの文章を書いている。ツイッター上では「赤報隊に続け」と叫ぶ者も出現し、「朝日関係者殺害用リスト」も作成されるようになった。筆者への殺害教唆を見かけることもしばしばである。

 けれども、ここで太平洋戦争へ至るまでの戦前のように言論が力による脅しに屈して、報道と言論が政権の意向を忖度して押し黙り、国民が政府の圧力に恭順の姿勢を示してしまえば、また過去と同じ過ちを繰り返させるだけだ。

 どの国であれ、政治権力や剥き出しの暴力によって「言論と表現の自由」を屈服させようとする者が出てくる危険な時代に差しかかっているからこそ、ペンを剣とし、法を楯として、全力で自由と民主主義を守らねばならない。

 先人たちが築きあげてきた近代と戦後秩序において多くの国々で実現した「言論と表現の自由」、わけても今日再び脅かされつつある「報道の自由」に対する政権側のいかなる圧力も許してはならない。そして、これらの自由を守り次の世代に受け継ぐのは、われわれに他ならないのだ。

 その意味で今後の数年間は、われわれ一人ひとりにとって、2010年代の日本を再び「開戦に至る10年」へと向かわせないための正念場なのである。


筆者

五野井郁夫

五野井郁夫(ごのい・いくお) 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

高千穂大学経営学部教授/国際基督教大学社会科学研究所研究員。1979年、東京都生まれ。上智大学法学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員、立教大学法学部助教を経て現職。専門は政治学・国際関係論。おもに民主主義論を研究。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス)、共編著に『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版)、共訳書にウィリアム・コノリー『プルーラリズム』(岩波書店)など。

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