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【対談】 國分功一郎×木村草太 【哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――憲法制定権力とは何か?

木村草太 首都大学東京教授(憲法学)

*この対談は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」をもとに構成したものです。

國分 木村さんのお話を伺って大変勉強になりました。さて、最初に、少しだけ哲学っぽい話をしたいと思います。

 おしまいに木村さんのおっしゃった、憲法制定権力の話は非常におもしろく、そして非常に難しい話ですね。これは僕もちょうど関心をもっている概念なんですが、簡単に言うと、民衆のもつ憲法をつくる力、あるいは権力のことですね。現行の秩序、それを支える法規範の効力の根拠をそのような概念で名指しているわけです。

提供=国立市公民館國分功一郎さん(右)と木村草太さん 提供=国立市公民館
 木村さんが紹介された長谷部恭男先生(憲法学)の説は非常に説得力がありますね。「民衆」ではなくて「国民」という言葉をお使いになっているようですが、国民には憲法制定権力があるというけれど、その国民が誰かを定義しているのが憲法ではないか、というわけです。

 つまり、「国民が憲法をつくる」と言っても、国民から憲法に向かって簡単に矢印が描けるわけじゃない。話はこんがらがっている。わざと複雑な言い方をすると、規定する者(国民)によって規定されたもの(憲法)が、実は、規定している者の方を規定しているということです。

 この問題は法学にも哲学にもずっとあります。しかし、先ほどのお話ですと、長谷部先生は、もうそんなものは論じなければいいではないかという立場ということですね。

 これはたぶん歴史的に言うと、20世紀オーストリアの公法学者ハンス・ケルゼンの考えに近いのではないでしょうか。つまり、憲法制定権力のようなものがあることは認めるが、法学の対象ではないと考える立場ですね。

 僕自身は、どういう立場をとるにせよ、憲法制定権力の存在を見据える必要があるという立場です。ただ、憲法制定権力の存在を見据えるという所作そのものが危険と隣り合わせであることも同時に指摘しなければなりません。

 たとえば、アントニオ・ネグリという哲学者がいます。ネグリは、法学者たちは憲法制定権力の話をしていてもそれを飼い慣らした気になっていると述べています(『構成的権力』松籟社)。法学者たちが言う憲法制定権力は、ペットのように飼いならされた動物である、と。しかし、そもそも憲法制定権力は飼い慣らすことのできない、野生動物のようなものだというわけです。

 別に僕は木村さんを前にして法学者を批判したいわけではないんですが(笑)、とにかくそういうことを言っている哲学者がいるわけですね。

 確かに憲法制定権力というのは、民衆が、法規も何にもない状態で持っている力、しかも一つの秩序を作り上げる力として想定されているものですから、それは簡単には飼い慣らすことのできない力と見なすことができる。だから、「そういう力が民衆にはあるのだ」と何の準備もなしに肯定してしまえば、それは暴動を喚起することにも近づいてしまう。僕が言っている危険というのはそういうことです。

 実際、近代の国家というのは、そういう力が爆発した16世紀、17世紀の宗教戦争を目の当たりにして、その力を何としてでも押さえ込んで国家の秩序をつくらなければならないという苦闘から生まれたものです。

 でも、憲法制定権力は現行の秩序から遡って想定されるものですから、法学がそれを取り扱わないというのはありだと思う。けれども、たぶん哲学はそれを問わないわけにはいかない。

 もう一つ、木村さんは立憲主義と民主主義の対立の話をされました。つまり、対立と捉える必要はないではないかということですね。これもよく分かります。

 ただ、「民主主義」という言葉に曖昧さがあり、それが悪用もされてきたという歴史がある。民主主義という言葉をとても民主的とは思えない勢力が利用する場合があって、それを警戒するために、立憲主義との対立においてそれを捉えるという理論構成は必要だと思うんですね。

 立憲主義と民主主義の関係というのは、踏み込むと非常に難しい問題ですが、立憲主義と民主主義的な手続きを、どのようにして、うまく絡ませていくかということが課題なのだろうと思います。

木村 今、ケルゼンという名前が出てきました。たぶん、一般の市民の方には誰だろう?と思っている方が多いと思います。非常にマニアックなんですけれども、憲法学にとっては、すべての議論の基礎となるぐらい重要な人物です。先ほど紹介した長谷部先生の論文も、まさにケルゼンの論文を引いています。

 難しい言い方になるのですが、ケルゼンは、「国家とは何か」という問いに対して、「擬人化された法秩序」だと答えた人です。国家と法を同視する、そういう議論をしていました。

 この議論の何がすごいかというと、普通、「国家とは何か」と問われたら、「国家とは、国民の意思の総体としての主権者により人々を統治する、有機的一体としてのシステムです」とか何とか、国家の本質とは何かみたいなことを延々と議論してしまうわけです。

 そんな中にあって、ルールに従って動いている秩序が国家であり、ルールがないところには法もないし、国家もない。ルールがあれば、そこに国家と法があるというタイプの議論をしたんです。長谷部先生はよく、「チェスが存在するということとチェスのルールがあるということは同じことだ」とおっしゃいます。

 普通の感覚からすると結論から逆立ちしたような議論で、ややこしいことこのうえないわけですが、そうしたケルゼンから見ると、法ないし国家がどうできるのかというのは、まさに法学の対象外だ、と彼は言っているわけです。それは事実の問題だからです。

國分 そう、事実の問題ですよね。

デモの飼いならせない力

木村 私はケルゼニストなので、法や国家を樹立する行為自体は、法的には説明できないと考えています。ただ、事実として、現に今、「これを法や国家として扱おう」という規範が存在しているとの認識が成立して、共有されることはありえます。そこで、その規範がどのようなものかを解明し、よりよい規範に解釈するにはどうしたらよいかを議論するのが、法的な態度であると考えています。

 憲法制定権力という言葉を使う場合に気をつけなくてはいけないのは、憲法が制定された過去の時点を振り返って、「みんながこいつの言うことに従ったのだから、こいつが憲法制定権力だったのだ」と過去の事実を説明するときに使う場合と、将来に向けて、「こいつが憲法制定権力なのだから、こいつの言うことを聞け」というタイプの議論をする場合とを、しっかりと区別しなければならないということです。憲法制定権力は、このどちらの文脈で話しているかによって、意味合いが全く違ってくるのです。

 例えば、1946年の日本で、帝国議会だったのか、マッカーサーだったのかわかりませんが、憲法制定権力があったという話は、事実の問題として議論できるでしょう。けれども、その憲法制定権力が、今もなお存在しているのだという考え方は非常に危険なのでやめておきましょう。そういうタイプの飼いならし方をしようというのが法学者の考え方です。「憲法制定権力なんてばかばかしいからなくしてしまえ」というよりは、「今生きている憲法制定権力なんて危なくて飼いならせないから、触らないでおこう」という、そういう議論だと思うわけです。

國分 過去にそういう力があったはずだという話と、今もなおその力がここにあるという話を分けたほうがいいというのは、全くそのとおりです。先ほど挙げたネグリは、どうもその辺りを混同しているように思われる。確かに現在秩序があるのだから、その秩序を作った力があるはずだ、と。それはそうなんですが、その力を実体化しようとすると危険がともなう。

 まさしく木村さんが言った「こいつが憲法制定権力なのだから、こいつの言うことを聞け」という話になってしまうと、もう最悪なんです。革命下においてはそういうことが起こるわけですけれどね。とにかく、「これこそが憲法制定権力をもった民衆の声だ。これに従え」ということになると、正統性争いが発生して、最後には暴力ですよ。暴力によって決することになる。だからこそ、立憲主義的に、憲法が定めた手続きに則って物事を決めていくということが本当に大切なんです。

 ただ、憲法制定権力の話をするときに、僕がよく思うのはデモのことなんです。以前、デモ論で書いたことがあるんですが、突き詰めて言うと、僕はデモによって民主主義を補完するというのはちょっと違うと思っているんです。デモにおいて現れているのは、民主主義はおろか、秩序そのものを壊乱する力がもしかしたら今すぐにでも発揮されるかもしれないという可能性なんですね。

 どうして人がただ外に出ているだけで政治権力にとって脅威なのか? それはデモが、「もしかしたら、こいつらは今の秩序を壊すかもしれない」「普段は上の言うことを静かに聞いているけれども、何かのきっかけで、どんなことが起こるかわからない」という可能性を示しているからです。それによって支配者に緊張感を与えるのです。

 ですから、結果としてはデモは民主主義に資する。しかし、デモに現れているのは、まさしく飼い慣らすことの出来ない力があるかもしれないという可能性なのです。そういう意味では、憲法制定権力という言い方がいいのかどうかは分かりませんが、事実として飼い慣らせない力がある。単に過去においてあったものと想定されるだけでなく、現在においても可能性、あるいは潜在性として存在している。このことは述べておきたいんです。

 もちろん、デモしているだけではだめであって、それがもたらす緊張感をうまく政治的対立の中にもっていき、その中で、権力を批判したり、対立したり、同意したりといった仕方で政治上の課題を解決していくのが近代の政治のやり方でしょうから、どうしたらそうした過程が可能になるか、というのが僕が一番関心あるところです。 (つづく)

國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか(2014/10/17)
國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(2)】――解釈改憲に向かう憎悪とロジック(2014/10/18)
國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――民主主義と立憲主義はどういう関係にあるのか?(2014/10/20)

●國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。