木村 やはり、今、「安倍政権を退陣させる方法」を聞きたいという方もいるでしょう。あるいは、市民の側が何をすればいいのか、具体的に何ができますか?ということを、質問をいただくことも多いと思うのですが。
國分 うーん、そうですね。小林節先生とお話ししたときは、結局、問題は選挙なのだということを強調されていました。選挙にきちんとみんなが行って投票しなくてはいけない。選挙というのは情報戦だから、きちんと情報を共有していくことが大切だと。僕もその通りだと思います。つまり、そういうものすごく当たり前の課題しか、今のところは出せないですね……。
ただ僕が最初にお話しした筋道の話と、いま言った情報の話。これは大切だろうと思います。たとえば、集団的自衛権に関連してものすごくたくさんのワードが出てきました。もう忘れているかもしれません。僕も全部は思い出せない。たとえば、「グレーゾーン」とかいった言葉もあった。
木村 「グレーゾーン」とか「機雷掃海」とか「積極的平和主義」とか……。
國分 ああいうのは明らかにたくさんワードを出して混乱させるためにやっているわけですよ。一つの明確なスローガンを出すとそれを批判されるから、どんどんワードを変えていく。有権者が十分に政治にキャッチアップできないようにするための戦略ですね。
だから、ワードに惑わされず、筋道を発見することが大切になる。僕自身の哲学というのは欲望の哲学なので、僕は常に欲望の筋道を探します。いまの政局においてうごめいている欲望とは結局何なのかを見極めようとする。
さきほど示したのは、その一例です。欲望の観点から眺めた時、一つ見えてくるのは今の政府や一部の世論にある、戦後の憲法体制への憎悪だろう。そこから説明するといろいろなことに説明がつくわけですね。
つまり、政府が出した集団的自衛権を行使する場合の15の事例とか、あんな神学論争みたいなものに足を突っ込む必要はない。この事例は非現実的だとか、もちろん軍事の専門家にはそうしたことをやってもらいたいけれども、あれは有権者を混乱させるためにやっている。だから筋道を発見することに知力を使うべきです。
そのためには情報が必要。こうした集会の場とか、本とか情報源が必要。ただ、最終的な行動としては、選挙こそが一番大切だということになるでしょうね。
戦後民主主義への憎悪を解消するには?
木村 あえて議論したほうがおもしろいと思いますので、少しだけ疑問をはさませてください。
安倍首相たちに対して、「あなた方は結局、戦後体制が嫌なんでしょう? それが本音なんでしょう?」と言いたくなるのは私もよくわかります。けれども、そう尋ねても、「いや、そんなことはないです」「激動する国際情勢の中で必要だからやるんです」、とこういう議論をしてくるわけですね。
だから、國分先生のように、そこにある欲望を指摘することは大事だと思うのですが、戦後体制を覆すつもりですか?という問いに対しては、反応しないわけですよね。
國分 全くそのとおりです。ただ僕がこういうことを言うのは非常に長期的な課題を考えているからなんです。というのも、僕自身も戦後民主主義的なものへの違和感は強くあるんですよ。僕は1974年生まれで、「護憲派」と「改憲派」が空中戦をやっているのを見たことがある世代ですが、あれもすごくイヤだった。
その文化の中に生まれた僕は、まぁ良いか悪いかは分からないがこういう人間になった(笑)。で、他方では、インターネットで日本の近隣諸国の悪口を言うことが「保守」だと真剣に信じている人間たちもでてきた。彼らの中心は僕の世代ですね。これはやはり反省するべきだと思う。何かが好きなのではなくて、何かが嫌いということで形成されるアイデンティティというのは間違いなく何かおかしいんです。
たぶん、これまでも多くの日本の思想家や知識人が指摘してきたことなのでしょうけれど、日本の戦後文化に何かおかしいものがあって、その帰結が、インターネットで日本の近隣諸国の悪口を言っている連中であり、彼らに支持される戦後生まれの首相なのでしょう。彼らは鬼子じゃない。戦後民主主義の嫡子なんですよ。
だから、ああしたパッションを理解して、彼らのような人たちがどうして出てきているのかを理解し、それこそ10年、15年、20年かけて、有効な、新しい文化を作り出さなければならない。僕はそこに関心がある。たしかに、木村さんがおっしゃる通り、この話を相手に投げかけても意味はありません。もっと長期的な話なのだと思います。
木村 結局、戦後民主主義への憎悪みたいなものを、どういう気持ちとして解消していくかということだと思うんですね。
今、ちょうど『ブラックアウト』、『オール・クリア(1・2)』(コニー・ウィリス、早川書房)というイギリスのSFを読んでいます。この小説で空爆を扱っているんですが、この空爆の思い出というのがロンドンの人と東京の人で全然違うわけです。
ロンドンの人の空爆体験は、邪悪なナチスに屈服しないために、市民全体が一丸となって戦っているという形で描かれる。けれども、東京大空襲はそうではない。一応こっちが悪い側なのだけれども、その一方で無垢の民衆、基本的には人を殺したこともないような一般市民が大量に虐殺されるという、非常に理不尽な状況、意味を付与できない暴力として、我々は東京大空襲を語ってしまうわけです。
そういうふうに考えると、結局、この戦後体制というものについて日本の側から意味づけることがすごく難しい。だからといって、開き直って「俺たちは何も悪くない」ということにしようとすると、近隣諸国云々以前に、やはり、ちょっと筋の通った説明になりません。
ですから先ほどの國分先生のお話は、「どうやって誇りを持ったストーリーをつくっていくかということを考えていかないと、何か下地の部分が解消しないよ」というメッセージとして受け取ったんですが、そういうことでしょうか?
國分 「誇り」という言葉を使うかどうかはともかくとして、そういうことです。最近、白井聡さんの『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版)という本が話題になりました。日本は戦後、敗戦を否定する姿勢をダラダラと続けてきたという話です。何かを認めようとしないでごまかす。だからこそ、「俺たちは確かに誤った。だからこそそれを反省し、こういった仕方でやり直してきた」と言えるストーリーが作れなかったんでしょうね。
ところが現在の日本社会というのは、誤りを認めるどころか、それをなかったことにして、誤りがなかったが故に「誇り」を持てるという論理を作り上げようとしている。手の付けようがない状態です。だからこそ僕は、長期的な課題を考えているという感じです。 (了)