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[1]立憲デモクラシーの会公開講演会 対米従属を通じての対米自立とは何か

まとめ:WEBRONZA編集部

内田樹 神戸女学院大名誉教授(フランス現代思想)

 立憲デモクラシーの会(共同代表:奥平康弘 東京大学名誉教授=憲法学、山口二郎 法政大学教授=政治学)は11月7日、「国家は何を守るのか——グローバル化と戦争」をテーマに、早稲田大学(東京・西早稲田)で公開講演会を開いた。第一部の基調講演では、フランス現代思想が専門である神戸女学院大名誉教授の内田樹氏が「資本主義末期の国民国家のかたち」と題して話した。内田氏のユーモアを交えた語り口に約450人の参加者は時に笑い声をもらしながら、真剣な表情で聴き入っていた。ここでは、内田氏の講演をWEBRONZA編集部のまとめでお届けします。

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内田樹氏拡大内田樹氏
 内田でございます。肩書はごらんの通り、凱風館館長という誰も知らないような任意団体の長を名乗っておりまして、きちんとした学術的な集まりに呼ばれますと、いたたまれない気持ちになるんであります。基本的に私は、すべての問題に関して素人です。「お前のしゃべることには厳密性がない」とか、「エビデンスがない」とか言われても、それは「そうだよ」としか言いようがないのであります。

侮れない素人の直感

 ただ、その素人には素人の強みがあります。まあ、何を言っても、学会内部的なバッシングを受けることはない。「素人なんだから、いいじゃないか」で、ぜんぶ済ませちゃうということができてしまう。往々にして大学の教師というのは、誤答を恐れるという傾向があり、大風呂敷を広げて、いい加減なことを言うことには非常に強い抑制が働きます。でも、私はその抑制のない人間であります。本当は、もう少しこういう人間がいた方が世の中面白いと思うんですが、意外なことに、この素人の直感が侮れないんですね。

 思い出すと愉快なことがあります。今からもう10年近く前になりますが、公安調査庁の人が、私が『場の中国論』という本を出した後に訪ねてまいりました。「公安調査庁です」と名刺を出しまして、で、「あなたのファンです」って言うんですね。ファンなわけないんですが、いろいろ話をしていたら、「この中国論なんですが、あなた、この中国共産党内部の情報をどうやってとっているんですか」と聞くんですね。「毎日新聞からです」って言ったんですけど。ずいぶん驚いていましたけど。でも、「新聞で公開されている断片情報でも、それをつなぎ合わせていくと、だいたいピクチャーは見えるじゃないですか」と言ったら、ずいぶんと納得しない顔でお帰りになりました。

 先般は、自慢ではないのですが、中国共産党に中央規律委員会というのがありまして、委員長が習近平なんです。その委員会が党幹部に向けて、読むべき本を56冊挙げました。そのリストに挙げたなかに私の『日本辺境論』が入っていましてですね。「習近平も選んだ、本」ですね。日本人が書いた本は僕の本だけだった、と中国人の友人から聞きました。「内田さん、あなたの本が出ているよ。習近平が認めた本だよ」と言っていたんですが、日本のメディアはあまり報道してくれません。

 そんな素人の直感は侮れないという話ですが、今日は「資本主義末期、国民国家の行方」みたいなことがテーマです。「君はこんなこと話してもいいのか」という声が飛んで来そうですが、政治学者の先生方は学問的厳密性ということを重んじられる立場から、軽々なことは申し上げられないと思いますが、私は限られた時間ですが、勝手なことを言って帰っていきたいと思います。私に期待されているのはそういうことだと思います。

 「風呂敷を広げておいてください、穴はいくら空いていても構いません」。そういうことでしょう。で、今日は、実は時差ぼけなんです。昨日の夜ローマから帰ってきたところで、これから時差ぼけ絶好調になるころなんです。実は、舌が良く回らない。いつもはもっと滑舌がいいんですが、いつもの7割くらいです。中身も7割くらいのクオリティーになる可能性があります。ご容赦ください。

日本社会はなぜ安倍政権を生み出したのか

 まず、今日のテーマですが、しぼっていうと、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、誰が支持しているのか。なぜ、このようなものを我々の戦後日本の民主主義社会は生み出し、それに対し、政官財そしてメディアは、このような政権にそれなりの高い支持を与えているのか。そういう非常に分かりにくい現状があるんですけれども、それは劣化なんですね。

 政府の崩壊と山口(二郎)先生がさきほどおっしゃいましたが、崩壊した、劣化する側にも主観的には合理性がある。「正しいことをことをしている、いいことをしている」。「日本の国民のためにやっているのだ」というようなことを思っているわけです。初めから劣化させようと思うような、そんな邪悪な念をもって、制度の劣化をはかる人間はおりませんから。ですから、こうなっているのも、我々からみるとまことに不思議なことをしているようにしか見えないですけれども、「自殺行為」をする人たちの中にも主観的には合理性がある、主観的には首尾一貫性がある、その主観的な首尾一貫性の方をまずは見てみたいと考えています。

立憲デモクラシーの会による公開講演会=2014年11月7日、早稲田大学拡大立憲デモクラシーの会による公開講演会=2014年11月7日、早稲田大学
 一言でいうと、特に海外から見ますと、日本の国家戦略は分かりにくいということがあると思います。それは、日本の国家戦略は戦後一貫して、「対米従属を通じての対米自立、対米独立」というのが、戦後日本の国家戦略であったからなのです。この対米従属を通じての対米自立というのが、たいへん分かりにくいんですね。

日本人に違和感のない「のれん分け戦略」

 僕は勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。日本人の場合、のれん分けというには、ある種分かりやすいキャリアパスなわけです。丁稚で入って、手代になって、番頭さんになる。で、大番頭さんになって。で、ある日大番頭さんが大旦那さんから呼ばれて言われるわけです。「お前も長いことよく忠義を尽くしてくれたから、これからうちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と。そう言われて、肩をぽんとたたかれて、店の主になるというキャリアパスというか、プロモーションシステムが伝統的に存在しているですよ。

 日本人にとっては、忠義を尽くして、徹底的に従属することによって、ある日自立を獲得するというような、構図は決して違和感がないと思うんですよ。おそらく、他の国の方からみるとかなり違和感あると思うんですが、日本人にとってはそんなに違和感がない。それが、日本人が比較的簡単にこの戦略に飛びついてしまって、それも、その異常さにいまだに気がつかない、ひとつの理由だと思います。一種の伝統文化です。われわれの中に身体化した、深く内面化してしまったものが、たぶん、戦後の対米戦略の中には伏流しているのだろうと思います。

 対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期の日本においては、ある種、非常に合理的な選択というか、それ以外なかった選択肢ではなかったかと思います。実際、徹底的に軍事的に敗北を喫して、軍事的に占領下にあったわけですから。完全に主権のない状態で、アメリカの最高司令官の指令に従うしかなかった状態。この屈辱的な被占領状態から脱却するためには、とりあえず、「この国には、アメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない、レジスタンスもないし、パルチザンもないし、ソ連や中国の国際共産主義の運動と連動する勢力も決して強くない」ということを示すことが優先されたのです。

 「我々は軍事的な直接的な占領から逃していっても、決してアメリカに反発、アメリカに対する敵対勢力になりません」ということを、とにかく、何とかして、誓約して、それを確証しないと、独立が獲得できなかったという切羽詰まった事情があったわけですから。

合理的だった「対米従属を通じての対米自立」

 この時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的にも、合理的な選択だったと思うし、おそらくはそれ以外なかったと思います。

 戦後初期の吉田茂とか、その後の岸信介とか佐藤栄作とか、彼らあたりまでの、1970年ぐらいまでの戦後25年間ぐらいの政治家というのは、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得して、それによって、次第次第に、直接統治、直接的に完全にコントロールされている状態から、次第次第にフリーハンドを増やしていって、最終的に国からすべてのアメリカ軍の基地がなくなっていくことを構想し、その段階で、憲法を改定して主権国家になるともくろんでいた。

 外交についても、国防についても、独自の戦略を展開していくという、それはある程度、長期的に、25年とか30年がかりで独立を回復していくという、そういうスケジュールを組んでいたんだろうと思います。そういうスケジュールの選択というのは、当時の日本にとっては必至のものであったし、実際に合理性もあったと思います。

 そして、この合理性を裏付けた強い根拠がありまして、それは成功体験なんですね。

大きかった二つの成功体験

 ひとつはサンフランシスコ講和条約です。戦後6年目の1951年に、この講和条約によって、日本がかたちの上では独立を回復するわけです。当時の日本の政治家自身にとっても、国際社会からみても、これほど敗戦国に対して、寛容で融和的な講和条約ってなかなか歴史上みることがないと言われたほどの寛大な講和条約が結ばれた。

 これはやはり、当時の日本の統治者たちは、「自分たちの対米従属戦略は正しかった」という認識をもったでしょう。「対米従属によって、大きな国益を獲得したのだ」ということですね。成功体験として、おそらくは記憶されたのだと思います。「当分、これでいこう」ということになりますね。これだけ大きな譲歩を得られたということは、これからもさらに対米従属を続けていけばいくほど、日本の主権の回復は進んでいくのだ、というロジックがそのころの多くの人たちに深く深く内面化していった。

 二度目の成功体験というのが、1972年の沖縄返還です。これも、佐藤栄作首相は、言ってしまうと、アメリカのベトナム戦争に対して、全面的な後方支援体制をとった人物です。国際社会からみたら、かなり批判されてしかるべき態度だったと思うし、僕ら自身も若かったから、佐藤栄作がこのような対米従属をしていることに、唯々諾々として明らかに義のない戦争を支援することに対して、怒りを禁じ得なかったわけです。

 わりとイノセントな学生の目からみればそう見えるわけでありまして、ある程度大きな国全体の国益を考えたら、佐藤栄作がやっていたことというのは、一理はあるわけですね。実際に沖縄が返還されたということがあるわけで。彼の中には、深い確信として、アメリカが行っているベトナム戦争という義のない戦争を支援することによって、われわれはそれまで占領されていた沖縄という国土を回復したという事実が刻み込まれたでしょう。現実に、サンフランシスコ講和条約で主権を回復し、ベトナム戦争の後方支援によって、72年には実際に沖縄という国土を回復した。この成功体験はすごく大きかったと思う。

 1972年の戦後、27年くらいまでの間というのは、対米従属を通じての対米自立というのが、絵に描いた餅ではなくて、一定の現実性をもっていたわけですね。これが深くその後の戦後日本の統治戦略、外交戦略、国防戦略の中に深く内面化していったことがあると思います。(つづく)

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