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[1]帝国日本が観光旅行を奨励した意味

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 帝国日本における歴史遺産の景観は、帝国の発展とともに広がっていった。本稿は1938年から43年にかけて中国大陸の3つの場所、すなわち奉天、南京、曲阜に出向いた日本人の観光旅行に焦点を当て、同時にその旅行の計画や奨励についても取り上げる。
 官民の関係者が、旧時代から引き継いだ歴史遺産をすぐさま活用したり、新たな歴史遺産(たとえば戦跡など)を制定したりするのは、観光を奨励し、帝国の事業が目指す内容を教化することが目的だった。
 上に挙げた3つの場所への観光旅行とその旅行の奨励を分析するならば、満州(奉天)と同時代の中国(南京)、昔の中国(曲阜)といった重層的な歴史遺産と、帝国日本がいかに複雑な関係をもっていたかを理解する手がかりとなるだけではない。帝国日本がアジア文明の守護者を自任していたこともわかってくるだろう。

はじめに

 戦時中は観光旅行が盛んだったなどというと、まさかと思うかもしれない。

 しかし、帝国日本の時代、余暇旅行がもっとも盛んになったのは、ほかならぬ日中戦争さなかの1940年のことである。

 この年、日本は神武天皇が皇朝を開いてから2600年とされる記念式典を催していた。この帝国規模の催しは、一大旅行ブームに火をつけた。もっとも、旅行分野が盛んになるのは1930年代以来であり、それは1940年代初めまで持続することになる。

満州、(皇紀)2600年記念の興亜国民動員大会拡大満州で開かれた皇紀2600年記念の興亜国民動員大会=1942年10月
 旅行分野の動きは、1937年7月に日中全面戦争が勃発すると、いっとき中断されたものの、すぐ上昇傾向に向かい、1938年にはすでに勢いを取り戻していた。

 実際、日中戦争(1937-45)では、とりわけ大陸での皇軍の勝利が、以前の戦争の時と同じように、胸高鳴る史跡を各地に広げることになり、観光客はその場所を目指すことが可能になった。

 旅行者はしばしば驚くべき速さで、兵士の足取りを追いかけていったが、兵士もまた見知らぬ土地を見てまわった。

 帝国はとりわけ戦闘を通じて、また植民地で何か大事件が起こる度に拡大していったが、それに応じて、歴史遺産の景観も同じように広がっていった。本稿で「歴史遺産の景観」というときには、いろいろな名所(多くが人によってつくられた場所、ないし少なくとも人の介在した場所)にかぎらず、それにかかわるさまざまな人にも言及している。

 帝国全域にわたって、多くの人が帝国日本、さらにはアジア文明の歴史と意義を解説するために動員されていた。帝国の史跡観光にはある役割があった。それは帝国を築き維持し正当化するという、より大きな計画と結びついていた。

 ただし、念のためにいうと、「帝国」という場合、筆者はそれをより広く定義して、日本の植民地にかぎらず、日本の傀儡国家であった満州国や、本稿の対象とする時代において日本の支配下にあった中国の一部地域をも含めている。

 たとえば、日本のいわゆる外地においては、戦跡や戦死者をまつる記念碑が、日本の観光客にとって人気のある名所となっていた。

 こうしたあちこちの場所を訪れることによって、日本人はみずからと帝国との結びつきを感じた。なかでも戦跡と記念碑は、帝国の事業に思いを馳せる拠り所となった。

 そうした場所は、帝国が広い領土、さまざまの(立ち後れた)民族、旧時代の魅力的な遺物を擁するにいたるまで、多くの代償を払ったこと、さらに帝国を維持し拡張するには引き続き犠牲が必要であることを想起させた。

 観光旅行は、帝国の事業がどのような性格を持ち、いかなる負担と給付をもたらすかを理解させるための教育手段でもあった。そのこともまたここでのテーマとなるだろう。

 本稿は中国大陸における3つの目的地、すなわち奉天(現・瀋陽)、南京、曲阜への観光旅行と旅行の奨励に関して、日中戦争勃発直後から1943年までを対象に分析しようというものである。

 1942年半ば、太平洋での戦況は日本側に不利となり、そのため内地での観光旅行は急速に落ちこんだ。しかし、日本の外地の支配地域では、観光旅行は内地よりもむしろ長く続いていた。先に挙げた3つの場所は、満州(奉天)と同時代の中国(南京)、古い中国(曲阜)といった重層的な歴史遺産と、当時、日本がどうかかわっていたかを示す手がかりとなるだろう。

 現在、この3つの場所は中国国内に位置しているけれども、本稿の対象とする期間においては、事実上、日本の支配下に置かれていた。

 日中戦争の時代、これらの場所は、観光インフラや観光客をひき寄せる力という面では、それぞれ別々の状態にあった。こうしたちがいから読み取れるのは、旅行客がどんなものにひかれ、満足を求めようとしていたかという戦時の内情だけではない。観光の奨励にしばしば熱心だった、当時の語り口についても知ることができる。

1914年に建てられた満鉄直営の奉天ヤマトホテル。奉天一の格式を誇った1933年拡大1914年に建てられた満鉄直営の奉天ヤマトホテル。奉天一の格式を誇った=1933年撮影
 奉天はインフラがよく整備され、訪れるのに便利であり、多種多様な名所を有していたため、多くの観光客をひきつけていた。

 奉天は南京や曲阜が観光をどのように発展させてきたかを評価する基準となるだろう。

 1937年12月に日本軍が南京を攻略したあと、「観光旅行界」は、この街を日本人受けする旅先にしようと奮闘する。

 南京は最近まで戦闘がくり広げられた必見の場所というだけではなく、昔ながらの中国の遺跡が残る場所だというのが宣伝の決め手となり、それが功を奏して、数年のうちにそれなりの成功を収めた。

 これにたいし、曲阜は価値ある観光資源となる可能性を秘めていながら、中国人、日本人双方の観光客にとって、どちらかというと周辺の場所にとどまっていた。とはいえ儒教発祥の中心地である曲阜は、東アジア史に強い興味をいだく少数の学者や人びとの関心を引きつけていた。

 この地域に駐屯する日本人兵士もその例外ではなかった。曲阜を真率に日本人、いやそれ以上に中国人にとって、歴史的価値のある観光地にするため、ある日本人評論家は、1942年半ばに大々的な計画を推し進めようとした。この地を孔子(紀元前551-479)や孟子(紀元前372-289)と密接につながりをもつ、日本の伊勢神宮とまったく同じくらい、重要で影響力のある中国の旅行先に変えようとしたのである。

 この計画は1945年に帝国日本が崩壊したために実現することはなかった。とはいえ、これを見ていくと、戦時中でもずっと、観光旅行の発展と奨励に関する問題が、幅広く語られていたことを理解できるだろう。 (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。

筆者

ケネス・ルオフ

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

1966年、米国ニューヨーク州生まれ。ハーバード大学を卒業、コロンビア大学で博士号を取得。専門は日本近現代史。1994~96年、北海道大学法学部の助手・講師をつとめる。2004年、大佛次郎論壇賞受賞。現在、オレゴン州のポートランド州立大学教授兼日本研究センター所長。 訳書に『紀元二千六百年――消費と観光のナショナリズム 』(朝日選書、訳・木村剛久)、『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』(岩波現代文庫、監修・高橋紘、訳・木村剛久、福島睦男)