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[1]日本保守主義の系譜とその漂泊

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 日本における近代保守主義は、思想伝統としても政治的伝統としても、安定した実体を形成しなかった。〈中略〉近代日本の国家理性の中には、保守の原理を容れるようなゆとりがなかった。それはもっぱら権力原理にもとづく反動の機能をいとなむ場合にのみ、公認の役割を認められるという形になった。保守はある意味での権力原理に対する反対物であり、権力の発動形態としての反動とは本来結びつかない。しかし近代日本が明治開国にさいして選びとったものは強力国家という権力原理であり、保守と反動の区別は社会的実体と結びついて理解されるような条件がなかった。(橋川文三「保守主義と転向」『共同研究 転向 5』東洋文庫、平凡社、2013年、413頁 *初版は1959年)

 2000年代に入ってから急速に日本で意味が軽くなった言葉のひとつに「保守」というものがある。

 政治学で保守主義といえば、政治制度が制度疲労して変更せねばならない場合を除いて、現代政治における急激な変化を避け、過去から続く伝統の連続性を何よりも重視する立場をさす。

 これらの定義は近年においても、政治学者の宇野重規が「日本の保守主義、その『本流』はどこにあるのか」(『中央公論』2015年1月号、2014年、84頁)などで示したとおりだ。

田母神俊雄氏2014年末の総選挙で「保守」政党・次世代の党から立候補した田母神俊雄氏
 だが、現在の日本をながめると、安倍晋三総理と保守政党である自由民主党は分からないまでも、先の選挙で「タブーを斬る」と称して排外主義を煽った次世代の党と田母神俊雄元航空幕僚長、はてには排外主義と差別主義に血道を上げた結果、この数年来、公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』の常連となった在特会(在日特権を許さない市民の会)らが「行動する保守」を名乗っている。

 このようにわれわれは本来「保守」という語彙が有していたはずの価値の落魄を目の当たりにするのである。

 なぜ「保守」という言葉はこのように価値の凋落を招くほどに漂泊し、融通無碍な使用がなされるようになったのか。

 ひとつには、おそらく、保守主義の説明で欠くことのできない「過去」について、どの時点の「過去」に力点を置くのかによって、保守主義のイメージがその僭称者の都合のいいように千変万化するからであろう。

 武家の世になる前の伝統と、武家の世になってからの伝統、江戸までの伝統と明治維新以降の伝統を、ひとつの連続性のもとに語ろうとした場合には、その時代の公儀の権威基盤が変化しているため、破綻が生じる。

在日特権を許さない市民の会」(在特会)の街頭宣伝を「人種差別」として高額賠償を命じた10月の京都地裁判決を批判するシュプレヒコールとともに進むデモ。沿道にはデモに抗議する人たちが集まり、「帰れ」と一斉に声を上げた=京都市中京区2013112朝鮮学校に対する活動を「人種差別」とされた京都地裁判決に抗議する「在日特権を許さない市民の会」(在特会)。彼らは「行動する保守」を自認する=2013年、京都市
 それゆえどこかに伝統の連続性の起点となる「過去」を定めるか、「江戸しぐさ」のように「伝統の創造」をどこかの時点で行わねばならない。

 たとえば靖国神社には吉田松陰や坂本龍馬が維新殉難者として合祀され、遊就館でも説明に使われている。だが、西郷隆盛や江藤新平らは維新の功労者であるものの叛乱を起こしたため祀られていない。

 これは維新後の体制側から見た「過去」の見方である。

 また「江戸時代」的な文化を道徳の規準として「伝統」にかぶせる動きもあれば、日本神話の時代を振り返るべき「過去」と考える立場もある。さらには戦後の高度経済成長期というやや近い過日について「あの頃の日本は輝いていた」と懐古する者もいる。

 他方で「国家保守主義」(中野晃一『戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡』岩波書店、2013年 、vii-ix頁)のように、戦前から戦後に続く日本の統治思想ならびに制度的な特徴について、国家の権威のもとに保守的な価値秩序へと国民統合を図るものとして、使用されている場合もある。

 中野によれば「前近代に起源を有する既存の権力秩序を『保守』することを目指す保守思想のなかでも、日本におけるバリエーションは、そうするためにエリートが国家という近代制度に依拠することが際立って」いたという。

 では、このような日本における「保守主義」のバリエーションとはいかなるものであったのだろうか。上からの保守主義、すなわち官製の保守主義もあれば、下からの保守主義、民衆からの保守主義もあり、知識人らによる保守主義も数多く存在した。

 本連載ではこれら日本保守主義の論じられ方とその思想基盤たる保守思想の明治初期における輸入から振り返り、戦前、戦後、そして現在までを俯瞰し把握してみたい。これらの作業によって、現代日本の保守主義がどこに立っているのかを見定められるのである。

 まずはその足がかりとして、戦後日本の社会科学のなかで日本の保守と保守主義について体系的に論じた文献を挙げておこう。

 日本の保守主義について戦後の早い時期から1960年代までの間に体系的に論じた著作は多く存在する。

 なかでも戦後保守主義に限定したものとして久野収・鶴見俊輔・藤田省三の座談会「日本の保守主義―『心』グループ―」(1958 年に開催、1959年に中央公論から『戦後日本の思想』として刊行)、明治初期に特化したものとして松本三之介『近代日本の政治と人間─その思想史的考察─』(創文社、1966年)が、より幅広い時間軸のものとして橋川文三編『保守の思想 戦後日本思想体系 7』(筑摩書房、1968年)が、また関連して「伝統」について網羅したものに『近代化と伝統 近代日本史講座7』(筑摩書房、1958年)がある。

 反動と保守を切り分けたものとして、『岩波講座 現代思想 第5巻 反動の思想』(岩波書店、1957年)の第三部が「保守と反動の価値意識」(小松茂雄、横田地弘、久野収が担当)を扱っている。

 さらに『現代日本思想大系』(筑摩書房、1963年-1966年)ではそれぞれ第31巻が「超国家主義」(橋川文三編)、第32巻が「反近代の思想」(福田恒存編)、第35巻が「新保守主義」(林健太郎編)として刊行されている。

 この一連の著作以後、商業書では「保守」系の書籍が冷戦構造の固定化と保守論壇の確立に伴って粗製濫造されていくが、学術的に日本の保守のありようを論じた学術書はまったく逆の傾向を辿ることとなった。

 かつては『ガロ』のような良質な漫画雑誌を出していた青林堂ですら、経営的に難しくなってからは保守主義雑誌として『ジャパニズム』のような醜悪な雑誌や、巷に溢れる嫌韓ヘイト本を刊行するようになる。次稿では、日本の保守主義がどのように論じられてきたのかを概観してみよう。 (つづく)

*第2回は1月30日(金)に配信する予定です。