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[2]日本保守主義の論じ方

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 保守主義とは何かを概念的に説明することは必ずしもむずかしくはないが、その具体的映像をはっきりと想い描くことは意外にむずかしいのではないかと私は思う。〔概念的な分析について〕それでもいざそれを日本の近代史もしくは戦後史上の個々の思想家にあてはめようとすると、思ったほど簡単な作業ではないことがわかる。(橋川文三編『保守の思想 戦後日本思想体系 7』筑摩書房、1968年、3頁)

 日本の保守主義を扱う上では、丸山眞男に学んだ政治思想家の橋川文三が記している上述のような悩ましさがある。

 だが、それにもまして保守主義を分析する際の悩ましさは、歴史の流れや改革に反対し、逆行しようとする立場である単なる「反動」と同視される場合があるからだ。

 くわえて、保守という立場が急進的な変化に対して批判的でありつつも漸進的な変容には必ずしも批判的ではない姿勢が自由主義に見える場合もあれば、あるいはそのいずれでもない場合にはナショナリズムと名付けたほうがよい事例もあるためである。

橋川 文三橋川文三(1922―1983)
 さらには、のちに概観するなかで説明することになるが、明確に保守主義者と名指すことのできる人物や思想としての保守主義に値するものが、他のイズムや立場にくらべて茫漠としているという悩ましさもある。

 やはり橋川もこの保守主義に付きまとう特徴について「自ら保守を標榜する思想家が日本にはいなかったか、ないし稀であったということにも関係がありそう」であり、「そのこと自体がまた日本の近代思想上の一つの問題と見てもよい」(橋川、同上、1968年、3頁)として、日本における「保守主義」の特徴を、みずから保守主義を標榜する者の少なさに求める。

 この点は、丸山眞男が1957年に発表した論文「反動の概念」で示された「日本に保守主義が知的及び政治的伝統としてほとんど根付かなかったこと」という指摘とも重なることだろう(『岩波講座 現代思想V 反動の思想』岩波書店、1957年、3-32頁)。

 橋川は保守主義の分類を、(1)「人間本性に含まれる新しいもの、未知のものへの恐れや忌避の感情」と、(2)「一定の歴史的段階において発達するにいたった特定の政治思想の傾向」、すなわち理性信仰への懐疑主義とし慣習と制度化の重要性を説いた保守思想家としての側面もあわせもつデイヴィッド・ヒュームや、フランス革命という進歩主義が世界史に出現したさいの対抗潮流であるエドマンド・バークを想定して進める。

 そこでは、20世紀前半に英国の保守論客であったセシル卿の「純粋もしくは自然な保守主義」や、知識社会学者カール・マンハイムがいうところの変化一般に対する嫌悪たる「伝統主義」「心理的事実」としての保守的態度としての保守主義と、「ひとつの特殊な歴史的、近代的現象としての保守主義」とは区別すべきだとされる。

 橋川はこうした保守的態度といった自然的な「保守主義」と区別して、「全く近代的起源を持つ」政治思想史上もしくは精神史上の傾向のみを、保守主義と呼んだ。

 さらに保守主義一般のバリエーションとしては、ドイツ・ロマン派とその末孫たちのように中世主義へと後退する場合や「階級こそが具体的であるという主張」がなされる場合をも想定する。

 この橋川の分類は、政治思想史家のアンソニー・クイントンが保守主義の特徴として挙げている(1)伝統主義、(2)有機体主義、(3)政治的懐疑主義(『不完全性の政治学――イギリス保守主義思想の二つの伝統』東信堂、2003年、10-11頁)とも重なるところが多い。

 そして、日本保守主義の特異な立ち位置を確定する上で重要なのは、保守という立場形成にさいしてつねに意識される2つの極の存在であろう。

 まず「革新」を1つの極とするならば、「保守的なるもの」を挟むもうひとつの極には超国家主義、すなわち「日本ファシズム」(橋川文三)がある。

 この「革新」とウルトラな国家主義たる「日本ファシズム」という2つの強固な極の間にあって、

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