戦後70年、日米は原爆の歴史を共有できるか
2015年02月14日
米連邦議会では2014年12月、第二次大戦時の原爆開発「マンハッタン計画」が進められた全米3カ所の地域と関連施設を国立歴史公園とする法案が通過し、オバマ大統領の署名を経て成立した。
この法案に関しては、広島、長崎両市長が「原爆投下を正当化し、核兵器廃絶を願う世界と将来の世代に誤ったメッセージを送ることにならないか」という懸念を米側に伝えていた。
それに対しルース駐日大使は、広島市長に宛てた返信で、「公園は教育的・記念的場所として運営されます。核兵器の無い世界を目指すに際し、歴史のレンズを通して当時を記憶するのは適切なことで、公園の目的はそこにあるのです」と説明していた。
しかし、両市長が手紙で「計画の詳細は把握してないが……」と書いているように、日本では「マンハッタンプロジェクト国立歴史公園」について充分理解されているようには見えない。本稿では、その内容や背景、実現に向けて尽力した関係者の言葉を紹介したい。
マンハッタンプロジェクトは、ナチスドイツが先に原爆を開発することを恐れて極秘で進められた計画だったが、関わったアメリカ人は数十万人にも達し、その大多数は開発の目的を知らされることは無かったが、空前の規模の国家事業であった。
その関連施設を国立公園にしようとする動きは、14年前に遡る。
2001年、施設を保有するエネルギー省から相談を受けた「歴史保存諮問委員会(歴史的資産の保存に関して大統領と議会にアドバイスする法的任務を持つ唯一の連邦組織)」は、マンハッタンプロジェクトに関連した複数の場所を総合的な単位として正式に設立させ、その保存・記念・公式解説を国立公園管理局と協力して行うよう提言した。
その提言を受け、連邦議会は2004年、内務省に対し、エネルギー省と協力して国立公園設立に関するフィージビリティスタディを実施することを命じた。
その後7年の年月と多くの関係者からのフィードバックを経て2011年、内務省は、「マンハッタンプロジェクトに関連する地域と施設を国立公園に組み入れることは、そのような資産の保護と保存を拡大し、20世紀の米国史におけるこの重要な歴史に関し、総合的解説と理解を提供する」とする調査報告を議会に提出した。
その内容は、原爆の研究開発実験が行われたニューメキシコ州ロスアラモス、原爆製造に必要なウラン精製工場があったテネシー州オークリッジ、そしてプルトニウム生産工場があったワシントン州ハンフォードの3カ所とその関連施設を国立歴史公園とするものである。
法案の提出者となったのは、これらの州選出の超党派の上下院議員で、内務・エネルギー両長官、国立公園管理局長官からも支持を得ていた。
法案は超党派からなる過半数以上の賛同を得たが、審議進行に関わる特別ルールで必要となった3分の2の賛成までには至らなかった。
その年の議員選挙でクシニッチ議員が落選し激しい反対はなくなったものの、2013年は時間切れで法案が通過せず、法律がやっと成立したのは2014年の暮れであった。
今回成立した法律は、その目的を次のように定めている。
1. マンハッタンプロジェクトに関連する米国の重要な歴史的資源を、現代と未来の世代のために保存し保護する。
2. マンハッタンプロジェクトに関連する歴史的資源の説明を通して、マンハッタンプロジェクトとマンハッタンプロジェクトの遺産に関する一般の人々の理解を向上させる。
3. 公共安全の保護や国家安全保障、そしてエネルギー省の他の任務に関わる側面と整合する形で、一般の人々のこの歴史公園へのアクセスを強化する。
4. エネルギー省、歴史公園関係者、各種歴史協会、そして関心を持つ他の団体や個人がマンハッタンプロジェクトに関連する歴史的重要資源を保存し保護する努力を支援する。
そして法律成立後1年以内に、内務省とエネルギー省が、運営に関わるそれぞれの役割について合意を取り交わし、「国立歴史公園」を設立することを定めている。
また実際の運営プランの作成に当たっては、内務長官が、関係する州・郡・地元の関係省庁・団体、そして関心を持つ一般市民とも意見交換をするよう求めている。
「マンハッタンプロジェクト国立歴史公園」がその管理下に入ることになるアメリカの国立公園は、1872年にイエローストーンが世界初の国立公園として設立されたのが始まりで、内務省がそれを管理した。
その後自然景観だけでなく、歴史的遺跡やモニュメントなども含むさまざまな国立公園が設立され、1916年には内務省内に国立公園管理局が設置された。
国立公園管理局はその後も拡張され、1935年の法律では、歴史的施設に関するリサーチ・保存・維持、さらには入場者への説明などの教育活動をする権限も与えられた。1966年には前述した連邦歴史保存諮問委員会が設立され、国立公園内の歴史的資源の保護が強化された。
今日、アメリカには400以上の国立公園があり、来場者は年間約2億7千万人、そこで働くボランティアは25万人と報告されている。 (公式サイトhttp://www.nps.gov/index.htm)
国立公園の中には、アメリカ人にとって語るのが難しい歴史にまつわる場所もあり、その意味で、今回のマンハッタンプロジェクト歴史公園は新しい試みではない。
例えば、チェロキー族インディアンを遠い居留地に強制移動させた「涙の道」、南北戦争中2万3千人が一日で死んだ「アンティータム戦場跡地」、第二次大戦中12万人の日系人が収容された歴史を伝える「マンザナー収容所跡地」、キング牧師が黒人の平等な投票権を求めて率いた「セルマ行進」の歴史などについて、多くのアメリカ人がこれらの国立公園を訪れて学んでいる。
「マンハッタンプロジェクト国立歴史公園」の設立が決まった後、ジョナサン・デーヴィス国立公園管理局長は、「歴史を語るのに、その出来事が起こった場所より相応しい場所はない。国立公園は誇りを持ってマンハッタンプロジェクトに関連する地域と施設を管理し、末永くその物語を語り継いでいく」と発言している。
今回の法案成立の原動力となったのは、非営利団体 Atomic Heritage Foundation(AHF)だった。
筆者は最近、その設立者代表のシンディ・ケリー氏と理事のリチャード・ローズ氏にインタビューする機会があった。ケリー氏は、この問題に関わることになった経緯や公園への期待を次のように語った。
「私は1993年にエネルギー省で働き始めましたが、その時点で、ロスアラモスのマンハッタンプロジェクト関連の施設は全て取り壊されることが決まっていました。大学で歴史を専攻した者として、将来の世代がこの歴史的事業が行われた場所を知る機会が無くなることに愕然としました。
保存の重要性を政府高官に訴えることに成功した私は、2000年にエネルギー省を退職し、マンハッタンプロジェクト関連施設を保存しその歴史を伝えることを目的とする非営利団体AHFを設立しました。
そしてその後15年近くにわたり、AHFは、連邦政府の関係省庁や連邦議員、関心を持つ諸団体と連携しながら、『マンハッタンプロジェクト国立歴史公園』設立のために活動してきました。
日本への原爆投下は、20世紀の歴史で最も議論を呼び起こす出来事だと思います。活動を通して私が感じた最大の困難も、個々人がこの歴史に既に審判を下していることと関係していました。
第二次大戦という脈絡や当時の指導者達が不確実性・曖昧性を伴う状況下で決断しなければならなかったことを考慮に入れず、人々はすぐ審判を下したがります。
理想的には、第二次大戦時の原爆使用と今も続く核兵器の問題について、人々が思慮深く偏見のない柔軟な対話を持てたらと思います。国立公園は、訪問者に“これが結論ですよ"と告げるアプローチは取りません。
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