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[3]奉天――「アジア的文明」の遺産として

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 大日本帝国内では、奉天であれ、どこか別の都市であれ、いったん観光客が到着すると、地域のガイドつき遊覧バスが、便利で手ごろな旅行手段となって、その地の名所に連れていってくれるようになっていた。

 奉天の遊覧バスを利用しようとする観光客は、半日コースか一日コースのどちらかを選ぶことができた。半日コースは3月1日から11月30日まで運行され、大人が一人1円50銭、子供は半額。一日コースは4月から11月まで運行され、大人が一人2円20銭、子供は半額。バスを運行していたのは奉天交通株式会社である。

 どちらのコースも奉天駅を始発とし、奉天忠霊塔、同善堂、北陵、北塔、柳条溝、北大営、城内四平街、奉天神社を回った(ちなみに、右下の写真は、1939年の『満州の観光バス案内』に掲載されたもので、北塔の前に立つ日本人観光客の姿が写っている)。

 昼食つきの一日コースはほかに国立博物館や天斉廟、満鉄総局(1936年に設立され、満州全域の鉄道を管轄すると同時に、産業全般の発展を促す仕事もしていた)、鉄西工業地区(1935年に地方の産業中心地として設立された)、そして南部住宅街を回った。

北塔の前に立つ日本人観光客北塔の前に立つ日本人観光客(『満州の観光バス案内』
 南京や曲阜はともかくとして、奉天の場合は、観光旅行がいかに活発だったかを示す、信頼できる統計を利用することができる。

 奉天の遊覧バスの乗客数(ここでは半日コースも一日コースもいっしょになっている)は次第に増加し、1万4148人(1938年)から、3万5130人(1939年)、6万2535人(1940年。この年は帝国内の旅行はピークを迎えていた)へと増え、それから少し減って1941年には4万9270人となっている。

 この統計が同時に示しているのは、多くの旅行者が観光のために、奉天交通でタクシーを雇っていることである。もちろん町を見て回るのに、自転車や人力車を利用することもできた。

 帝国内ではたいていの遊覧バスの最初の停留所は、その地元でもっとも崇められる神社と決まっていた。

 外地の場合、神社には常にといっていいくらい、天照大神と明治天皇(在位1868-1912)が祭られていた。日本の近代帝国は明治天皇の名のもとで築かれたといってよい。

 奉天の最初の停留所は奉天神社ではなかったものの、天照大神と明治天皇の祭られた奉天神社は、日本の外地では最も畏れ多いものとされていた。

 東京帝国大学教授で歴史学者の中村孝也(1885-1970)が1942年に上梓した中国大陸旅行記では〔訳注、旅行自体は1941年〕、奉天神社の森厳さがたたえられている。

奉天神社。天照大神、明治天皇を祭神に1916年作られた。春日公園に隣接しており、数次にわたる増改築で公園をのみこんで拡大した。「満州一の宮」として満州神宮に昇格させようという動きもあった。1930年ごろ撮影の絵はがき 奉天神社=1930年ごろ撮影の絵はがき
 中村は外地の神社についていえば、神社の広さや壮麗さは、地元の日本人社会の大きさや、その移住がどの程度進んでいるかと密接にからんでいる、と率直に指摘している。

 奉天に滞在中、中村は大学の教え子で、「日本国際観光局奉天案内所」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー奉天支社のこと)に勤める知り合いの世話を受けている。

 かれらはさまざまな場所を自動車で巡った。中村は旅行記のなかで、奉天の内城にはいる大南門を見るにつけ、大山巌(1842-1916)大将の率いる日本陸軍がロシアの守備軍を打ち破り、1905年3月10日に奉天入城を果たすのを描いた絵とそっくり同じ場面が残っていることに感銘を受けたと記している。

 この絵は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に架けられているものだが、この絵画館には明治天皇治下の感銘深い国家的出来事を描いた80枚の絵が掛けられていた。その1枚、「大山巌の奉天入城式典」を明治神宮の許可を得て、下に掲げておこう。

、「大山巌の奉天入城式典」「大山巌の奉天入城式典」
 中村は奉天訪問記の残りの大半を同善堂や北陵の記述にあてている。

 同善堂は市の福祉施設で、ここでは奉天の多くの貧窮者の生活を改善する、さまざまな手だてが講じられていた。また北陵については、その建築をはじめとするさまざまな特徴に筆を割いている。

 中村は故(ふる)くて新しいものにひかれ、同善堂を賞賛に値するとしている。

 しかし、かれが言及したそれ以外の名所は、文明の保護者が移り変わっていることを示していた。奉天神社が帝国日本の拡張主義的ダイナミズムをあらわしているとすれば、奉天の城壁や門、北陵などは、かつてここを支配した文明の遺跡なのだった。

「光輝ある歴史」の地

 中村孝也とは対照的に、関内正一(1897-1962)は、長期にわたる満州・中国旅行の一環として1939年7月に奉天を訪れている。

 かれは中村と対照的に戦跡に興味をいだき、昔ながらの事物にはそれほど多くの紙幅を費やしていない。

 関内は与えられた機会を満喫するかのように、次々と新たな記念すべき場所や戦場を訪れては、日本軍をたたえ、日本の正義を吹聴し、日中間の論点では日本の公式見解をくり返す日記を残している。

 関内の臆面もない愛国調は、おそらく福島県会議員としての立場に由来するものだろう。いずれにせよ、かれは日本の公式路線に沿って、日本が血の犠牲によって、大陸での特権を得たのは当然と唱える広告塔のような存在だった。

 奉天を訪れたさい、関内の記述は都合よくこの都市を解説してみせるところから始まっている。奉天は日露戦争でも満州事変でも主戦場となった場所であり、それゆえここは「永遠にわが光輝ある歴史に大書せらるべき記念の地である」と記している。

 関内は遊覧バスを楽しんだことも書いている。かれが奉天でのさまざまな戦いを詳細にわたって丁寧に記述することができたのは、ガイドの説明をしっかりと聞き(もっとも旅行記には、戦場でのガイドの話を参照したとは書かれていないが)、さらには1939年発行の案内書『満洲戦跡巡礼』の記事を参考にしたためだろう。

 この案内書は入手しやすく、多岐にわたる記載がなされており、かれが旅行中も、帰国して旅行記を仕上げているときも、手元に置かれていたものである。

 歴史家の高媛(カオユアン)によれば、日本の関東軍は、聖なる戦跡についてのガイドの説明をほうってはおかず、むしろそれを絶好の宣伝機会ととらえていたという。

 関東軍は遊覧バスを運営する地元の交通会社に、名所についての愛国的な台本を提供し、実のところガイドはそれをうまく演じて、しばしば参加者に大きな感銘を与えていたのだった。

 遊覧バスに参加した関口は、奉天の見学を日本の戦死者をまつる忠霊塔を「参拝」するところから始めている。この忠霊塔では記念写真を撮った。

 その高さでも大きさでも強い印象を与える忠霊塔は、満州各地に点在し、遊覧バスがいつも訪れる場所となっていた。関内はうやうやしく北陵を訪れたことも記しているが、それはこの場所が、日露戦争のさいに、乃木希典(1849-1912)将軍の指揮する日本軍とロシア防衛軍とのあいだで、激しい戦闘が繰り広げられた場所だったからである。

 日露戦争は、日本とロシアのどちらが朝鮮を支配するかをめぐって戦われた戦争だったといってよい。しかし、満州事変のあと、ロシアとの戦いで戦死した日本人は、日本の満州での権益を正当化することに利用されたのである。

 関内は柳条溝を目の当たりにしたことを興奮気味につづっている。

 柳条溝は当時、中国軍が南満州鉄道の線路を爆破し、満州事変を引き起こすことになった場所と思われていた(実際にはこの爆破に関与したのは関東軍である)。関内は柳条溝で起こった出来事を、日本の公式発表どおり、当時の絵葉書も含め、あらゆるメディアが受け入れた筋書きに沿ってくり返している。

 関内はまた北大営を訪れたこともうれしげに書いている。北大営では予期された中国の挑発にたいして、日本軍は張学良麾下(きか)の中国軍部隊に応戦し、それを打ち破っていた。

「奉天にいる気はしなかった」

 奉天を訪れた日本人観光客のだれもが、関内のように戦跡に魅せられたわけではない。

 映画評論家の今村太平(1911-1986)は、1940年10月に自動車と徒歩で奉天をまわり、旧文明の遺跡に引きつけられた。北陵を見て、かれは「(日清戦争で)日本に敗れた清朝も、やはり一つの偉大な時代であると思われるのであった」と断言している。

 今村は北陵の優雅さを、日本人が満州のあちこちに立てている味気ない近代ビルと対比する。そのなかには数日前に訪れた撫順のコンクリートの寺や、昨夜泊まったホテルなども含まれていた。

 今村は自国の貧弱な建物のさまと、昔ながらの壮麗な遺跡とを比較しているが、こうした比較からは、昔の文明の遺物をはたして保全できるのかという問題が浮かびあがってくる。もし残っている遺物が、現在の日本がひょっとして昔のものに追いついていないという証拠だとするならば、帝国の事業はたいしたものではないことになってしまう。

 今村の考え方はどちらかというと風変わりで、美観を重視するところがあって、たとえば近代性のきわみである満州の便利な超特急列車などさほど評価しなかった。近代性の装飾は快適である半面、それとは異なるものを求めている旅行者を満足させるとはかぎらないということである。

 奉天の見物をした日の夕食後、今村は市内の日本人街をぶらついたが、次第に退屈してしまう。「奉天にいる気はしなかった」と書いている。

 地元の光景なら、どんなところにも引きつけられたわけでもなかった。かれは旅行記に、車で城壁のそばの満人街を通ると、ぷうんといやな臭いがしたと記している。

 今村と関内、中村が訪問先の奉天で興味をいだいたところは、それぞれ異なっているが、それでもかれらは日本人旅行者の平均像をあらわしている。それは外地を訪れた大半の日本人が中産階級、あるいはそれ以上だったということである。

 日本の貧しい人びとは、観光客としてではなく、入植者あるいは兵士として、内地からやってきた。ほかに帝国内を訪れる日本人の重要な一団としては、生徒のグループがあり、その経済階級を把握するのはなかなか難しいが、それでもかれらが貧困家庭の子供たちだったとは考えにくい。

 大陸周遊旅行の一環として、級友たちと1939年に奉天を訪れた奈良女子高等師範学校のある生徒は、戦時にこの都市を訪れた日本人として詳細な記録を残している。

 ジャパン・ツーリスト・ビューローの斡旋したガイドが詳しく案内してくれた、車による一日観光のあいだ、この生徒はだいたいの名所をまわって、旅行者全般に求められたと思われる忠霊塔などへの参拝も欠かしていない。

 この生徒は、壮大と感じた国立博物館を見学する時間が25分しかなかったことが残念だったと書いている。ここにはある注意すべきことがある。それは旅行者が見たものをどのように解釈したかにもとづいて、それなりの結論を引きだすさいには、よく気をつけなければいけないということである。

 というのも、たいていの場合は、旅行者があちこちの場所を訪れる時間がきわめてかぎられていたからである。

 国立博物館を25分しか見学できなかったこの生徒は、はたしてここから、日本人がアジア文明の守護者たらんと努めていると感じとることができただろうか。

 記録からは、彼女がこの博物館を、そういう方向に沿って解釈していたかどうかは読み取れない。とはいえ、彼女は博物館の収蔵品が、地元芸術(ならびに清朝時代から引き継がれた多くの作品)を集めた歴史的精華だと理解していた。

 岡倉天心(覚三、1862-1913)は1904年の著作『東洋の理念』のなかで、日本にアジア文明の守護者という役割を割り当てている。かれは自国を「アジア的文明の博物館」と名づける。岡倉は懸命に段取りをつけて、個人コレクション(そのなかには神社仏閣などのものもあった)となっていた昔のおびただしい芸術作品を、新たにつくられた多くの博物館に移転させている。

 帝国の拡張に伴って、日本の当局者が、古い地元文明のおびただしい文物を、植民地に新しくつくった博物館に収蔵していくだろうと、岡倉が予見していたとは、とても思えない。しかし、その後に生じた事態は実際そうなったのである。

 奉天の国立博物館の歴史は、日本帝国内につくられた多くの博物館の成立過程とは少し異なっている。

 というのも、もともとこの建物を所有していたのは中国人軍閥の一人だったからで、この人物は満州やモンゴルのすぐれた美術品を集めていた。

 それからしばらくして、ここは政府の博物館となった。この博物館に展示されていたのは、中国そのものというより、満州やモンゴルの美術品だった。そのことから、とりわけ満州事変後に、多くの日本人は、この博物館は、満州が歴史的にみて中国の一部ではなかったことを示す証拠だと、こじつけて主張するようになる。

 この博物館は、満州が中国の一部ではないというメッセージを観光客に刷りこんでいく場所にほかならなかった。そして、こうした主張が、(建前としては)独立国家である満州国の創設を正当化していったのである。

 1930年代後半になると、奉天の国立博物館は、台北、ソウル、樺太の豊原まで大日本帝国全域に広がる多くの博物館の一つとなっていた。

 その役割は、地元文化を格づけし、展示し、解説することであった。大日本帝国は、岡倉天心が意図した以上に、文字どおり「アジア的文明の博物館」への道を歩んでいた。

 こうした博物館は、奉天その他、帝国内の場所を探訪する多くの観光客を引きつけていった。そして、アジアの指導者を自任する帝国日本が、後世のためにアジアの遺産を保全する監督責任者であることを示す施設となったのである。 (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。