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[5]皇軍が南京攻撃に成功した物語と光景

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 1939年にジャパン・ツーリスト・ビューローは南京に紹介所を開設した。これによって南京旅行の斡旋は大きな転機を迎える。

 さらにその年の3月、つまり南京大虐殺からほぼ1年後に、JTB奉天支社は南京の名所を宣伝する、薄くて安い旅行ガイドを発行した。

 このガイドは、JTBが帝国内のさまざまな場所を紹介する小冊子と同じ判型を踏襲している。この旅行ガイドには、その場所に行く交通手段やら、どこに泊まったらいいかが紹介されているだけではなく、時間に追われるいまどきの旅行者に対し、見るべき場所や、その見学に要する時間までが示されていた。

南京の光華門の内側南京の光華門の内側
 南京でお勧めの場所は、何といっても南京入城にさいして日本軍がついに突破を果たした光華門だった。

 ジャパン・ツーリスト・ビューローの南京旅行ガイドには、便利な交通連絡網(揚子江の船旅も含めて)が紹介されており、この交通路を通って、中国国内のいろいろな都市、たとえば上海に行くこともできた。1938年10月5日に日本航空が東京と南京を結ぶ空路を開設したことなども明記されている。

 この旅行ガイドには、交通機関の紹介に加えて、JTB奉天支社だけではなく、地元のJTB案内所が連係して、南京旅行を斡旋しているという一節がさりげなく盛りこまれている。

 このガイドを読んだ人は、南京が戦争が始まる前は100万以上の人口を有していて、いまも娯楽に事欠かないことを知った。

 たとえば、映画を見るなら「東和劇場」のほか2軒の映画館、中国の劇を見るなら「大世界」、そのほかさまざまな演目を地元の劇場で楽しむことができた。ガイドのお勧めは、中華料理なら「太平洋」とほかに2つの店、日本料理なら「ことぶき」をはじめとする5つの料理屋だった。

 このガイドで紹介されている宿泊可能な旅館は、城内では「南京ホテル」や「大和旅館」など9つ、城外では3つのホテルだった。一泊の料金は5円から10円というあたりが相場だった。

 ガイドでは、「外人」、つまり西洋人の宿泊に適するホテルは3つしかないと強調されている。ホテルやレストランなどの業務は、どの地域の観光旅行界でも中心部分を占めていた。

 南京の場合は、経営者がまず第一に気を配っていたのは、観光客などの旅行者がやってくる流れだった。

 そうした関心はジャパン・ツーリスト・ビューローも変わらなかっただろう。しかし、地元の経営者は、たとえば旅行者が最近の戦闘にどのような感想をいだいたかということに、さほど関心をもたなかったのだろうか。

 これはジャパン・ツーリスト・ビューローの関係者を含め日本の当局者にとっても、見過ごすわけにはいかない問題だった。かれらは日本軍の行動や帝国の事業が正しいと受けとめられるよう願っていたからである。

 ジャパン・ツーリスト・ビューローの簡易な南京旅行ガイドには、お勧めの娯楽や食事、宿泊場所に加えて、3つの遊覧コースも紹介されていた。その全部が自動車を利用するもので、遊覧にはそれぞれ約3時間、4時間、3時間を要した。

 名所見学のために自動車を簡単に雇えたということは、観光の基盤整備が進んでいたことを示しており、野依が訪問する1年前からそうだったことがわかる。しかし、自動車を雇って名所を遊覧するには15円程度かかったから、中産階級の旅行者にとっても、ずいぶん高くつくと感じられたはずである。

 ジャパン・ツーリスト・ビューローの旅行ガイドには、南京の戦跡見学バスがまもなく運転を開始すると書かれている。この遊覧バスは、旅行作家の東文雄が南京を訪れたときには、どうやらまだ利用できなかったようだ(かれの旅行記は1939年に出版されている。南京を訪れたのが1938年か1939年かははっきりしないけれど、戦闘が終わったあとだったのはまちがいない)。

 東はこの本に中国と満州を汽車で旅行するときの心構えのようなものを記している。3等車は中国人でいっぱいだから、日本人の旅行者は少なくとも2等車を奮発すべきだと忠告している。

公式化されていた「突破の場所」

 南京の名所を見物するために、東が勧めるのは人力車(「黄包車(ワンパオツ)」)だった。というのも、南京で自動車を雇うのは、上海よりずっと高くつくからだ。しかし、南京郊外のいくつかの名所を訪れるには、自動車を利用する以外に方法はなかった。

 同じように、愛国者の関内正一が1939年7月に南京を訪れたときも、ほかの大陸の町とちがって、南京にどこか不便さを感じている。その旅行記で読者に南京に行かないよう勧めているわけではないが、関内自身は自動車でさまざまな場所をまわり、日本軍が突破した城壁も見ている。

 その旅行記からは、かれが訪問したころには、すでに皇軍が攻撃に成功した物語と光景がしっかりと確立されており、観光客の頭にそれがくっきり刻まれるようになっていたことがうかがえる。

 南京の城壁上には標木が立てられ、そこが日本軍の突撃した場所であることが記されていたが、それが観光客にとって、いかにももっともと思わせる信用性を与えていた。

 加えて、日本軍が突破した、人目を引く二重の城門の中間には目印が置かれていて、そこが伊藤善光中佐が戦死した場所であることが示されていた。戦死した伊藤中佐はお定まりの戦闘記事で、早々と悲劇の英雄に祭りあげられた人物である。

 ほかにもあちこちに、南京攻略にあたって多くの日本兵が戦死したことを示す墓標があたり一帯に立てられていた。つまり、突破の場所は見るべき場所として、すでに公式化されていたのである。

 特別に南京の戦跡を回る定期的な遊覧バスがあったかどうかは、はっきりしない。

 一般の観光客が興味をもつ多くの楽しみや古い名所があるのに、戦跡巡りをするというのはあまりに極端かもしれない。しかし、ジャパン・ツーリスト・ビューロー編の1941年版『満支旅行年鑑』によると、この年鑑が発行される前のある時点で(遅くとも1940年には)、南京の名所を回る便利な遊覧バスが運行されていたことがわかる。

 2時間半のツアーで、値段は3円、完全に商業ベース化され、手ごろなガイド付きで、8つの名所を回った。その8つとは、新市街口、玄武湖、中山門(日本軍が入城した南京の一つの門)、明孝陵、中山陵(孫文は中国民族主義のシンボルのような人物だった)、光華門(日本軍が最初に突破した場所)、中華門、それに夫子廟だった。

 バスは神社には停まらなかった。このことは、最近、日本軍が統制下においたばかりの南京では、奉天とちがって日本の痕跡がそれほど残されていなかったことを示している。

 とはいえ、バスツアーは奉天のものとよく似ており、いくつか新しい場所(といっても、それは奉天の一日観光に比べてずっと少なかったが)と、戦跡、それに旧時代の歴史遺産が組みあわさっていた。

 南京でも日本の当局者は、地元の文化やそれ以前のものからいくつかを選んで、その価値を引きだそうとしていた。それは、観光客を引きつけるとともに、アジア文明の保護者としての帝国日本の役割を明確にするためだった。

 定期遊覧バスの運行をみてもわかるように、1940年ごろには、じゅうぶんな数の観光客が南京を訪れ、定期的な商業バスの運行を可能にしていた。この遊覧バスは、つまるところ利益追求事業だった。

南京の国民政府大礼堂で開かれた主席就任式で宣誓文を読む汪精衛(兆銘)19401129南京の国民政府大礼堂で開かれた主席就任式で宣誓文を読む汪精衛(兆銘)=1940年11月29日
 1940年3月から、南京は汪精衛(汪兆銘1883-1944)の率いる国民政府の首都となる。

 国民政府は日本の傀儡政権だった。そのことで観光客の数は増えたのかもしれない。そうでなければ、この町が観光旅行でにぎわったとは、とても思えないからである。

 1943年7月の『旅行雑誌』(『観光東亜』を改題)に発表された短い南京訪問記で、小説家の山田清三郎(1896-1987)は、平穏が戻るにつれ、14世紀後半から残っている鼓楼など、この町ならではのさまざまな観光資源が保全されることを願っている。

 山田は12日間、南京に滞在したから、ふつうの観光客より滞在期間が長かったかもしれない。東亜旅行社奉天支社〔訳注、1941年にジャパン・ツーリスト・ビューローは東亜旅行社と改称〕から発行されていた高級旅行雑誌に掲載された、かれの記事の全体的な調子は、旅行者をひきつけるという面で南京の明るい将来を指し示すものとなっていた。 (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。