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[6]孔子の遺跡、曲阜を人気の観光地に

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 戦闘後の傷跡をいやし、南京の街をつくりなおして、観光客に魅力ある旅先にしようという試みは基本的にはつづけられていたものの、そのいっぽうで歴史遺産に満ちあふれた中国の地域を、これまでになかった必見の観光地にしようという日本人の計画も数多く見られた。

 以前、筆者は『紀元二千六百年』という著書で、3章をあてて、戦時観光について記述した。そのさい孔子の遺跡をてこいれする石原巌徹(1898-)の1942年の計画をはじめて読んで、何よりも印象深かったのは、かれが当時の観光旅行推進の動きについて、多くのことを知っていたことである。

 この計画が実現することはなかったのは、1945年に大日本帝国が消滅してしまったためである。とはいえ、曲阜に対するかれの提案が役立つのは、それによって観光旅行にからむ文化資本の帝国全域にわたる動きを理解することができるからである。

 石原の提案について見ていく前に、曲阜についての予備知識が必要とされる。

 曲阜は近代以前から何世紀にもわたって、中国人が巡歴に訪れる場所であり、とりわけ旅行が盛んになった16世紀以降は郷紳のあいだで人気が高まっていた。

 何人かの皇帝も曲阜に赴き、孔子に捧げものをしている。康煕帝(在位1661-1722)もその一人だった。近代になると、曲阜は日本人も訪れることのできる場所となった。それまで日本人は、かつて中国の古典を学ぶ者たちが漠然と憧れていたように、ここを頭のなかで思い描くだけだったのである。

 当初、曲阜はおもに中国の古典に精通した日本人の学者をひきつけており、かれらは熱心に儒教発祥の地を見てまわっていた。

 歴史家のジョシュア・フォーゲルは中国学者の宇野哲人(1875-1974)の場合を取りあげているが、宇野は畏敬の念をもちながら1906年に曲阜を訪れている。

 この訪問をへて、宇野は古典にみられる偉大な中国(その象徴が曲阜だった)と、当時の貧しく弱い中国とのあいだには裂け目があると思うようになった。これは二つの中国を並置する見方で、帝国時代に日本人のあいだでよく見られるようになった考え方である。

 それからの数十年のあいだ、日本人の中国訪問者のなかで、曲阜がどれくらい人気があったかについては、相異なる証拠が示されている。

 中国に関係する協会や学界などに加わる日本人は、孔子、孟子関連の聖蹟について、旅行記や専門研究を発表してきた。たとえば1922年に東亜同文書院は山田謙吉の『曲阜紀行聖蹟』を公刊しているが、山田の紀行は、曲阜への大衆的観光を促す宣伝の文章とはかなり趣を異にしている。

 とはいえ少なくとも、日本語の解説付きの曲阜写真集が2冊、山田の紀行が発表されたのと同じ時期に発行されている。そのことは曲阜にたいする関心の広がりを物語っているといってよいだろう。

 1934年とそのあと1940年に、馬場春吉は曲阜周辺の聖蹟について、写真を多く含んだ詳細な記述の大冊を刊行した。

 大正時代(1912-26)の終わりにかけて、馬場は、中国人に教育機会を与えることを目的として、曲阜の位置する山東省の省都、済南に学校を建設した。

 それが機縁となり、馬場は済南を拠点として、儒教の発展にかかわる近辺の史跡を調査してみることにした。大東文化協会が馬場の長年にわたる研究を支援し、1934年の出版にさいして、資金を出してくれた。さらに1940年には、山東文化研究会からももう1冊の本が出版されている。

 馬場の2冊の学術論文にたいしては、日本人の著名な中国研究者から孟子の後裔にいたるまで、さまざまな名士から、その成果にたいし書状や賞賛の言葉が寄せられた。

 1940年の著書で、宇野哲人は山東文化史研究にたいする馬場の功績をたたえ、山東文化史こそ「支那文化の枢軸」と呼んでいる。『孔子聖蹟志』と『孔孟聖蹟図鑑』には、たとえば、その地域の鳥瞰図などのように、当時の観光促進の宣伝に役立ちそうなものもいくらか含まれていた。しかしこの2冊の本は、一般旅行者が参考のために読むには、あまりにも大部であり学術的でもあった。

 1930年代の大陸旅行ガイドを見ていくと、どうやら曲阜は日本人の観光客がよく行くコースには含まれていなかったようだ。とはいえ、たいていのガイドブックには、簡単であるにせよ、その重要性が記されていた。

 もっとも、孔子の77代目にあたる孔徳成(1920-2008)の姉、孔徳懋(1917年生まれ)は、日本による占領期間中、日本兵の訪問によって、困窮していた孔家に収入がもたらされたと話している。

 日本の将校はしょっちゅう孔子廟にやってきて、香をたきました。礼拝したあと、賽銭を出してくれますが、そのとき廟の管理者は、香炉の前に下げてある木の札に賽銭を出してくれた人の名前と金額を刻むのです。すると次に廟にお参りにきた日本人が、きまって前に来た人より多く賽銭を出そうとするわけです。月末に木の札は人の名前と金額でいっぱいになるので、月ごとに新しい木札が立てられます。孔家はこのおかねを日用の少なからぬ費用をまかなうのに使っていました。もはや借金をする必要はなくなり、差し押さえられていた土地の一部を取り戻すことができました。

  下に複製したのは1945年以前の絵葉書で、そこには曲阜の孔子廟が描かれている。

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 このように日本兵が数多く訪れていたにせよ、しばしば大陸問題について執筆していた石原巌徹は、曲阜が全般的に人気がないことに唖然としていた。とりわけそこを訪れる中国人の数はことさら少なかった。

 かれはそこで、この状況を改めるため、大胆な計画を練った。曲阜を信仰と学習の中心であるだけではなく、観光客にも人気のある場所に変えようとしたのである。

 石原は1942年3月の『観光東亜』に掲載された記事の後半部分で、曲阜を中国の主要な国家的歴史遺産の地にする計画について詳しく述べている。ほかに山東省の鉄道や見所を描いた地図も掲載されていた。

 記事を見ると、石原が華北交通会社の顧問をしていたこともわかる。華北交通は1938年に政府の支援によって設立され、日本軍が最近占領した山東省を含む華北の鉄道・バス路線を運営していた。

中国人の儒教離れ

 石原は「孔子と現代儒教」と題する論文の最初の数ページで、中国人がもはや儒教を信奉していないことを、もっともらしく論じている。

 日本人のあいだで、根本的な「疎遠」説が定着したのは、中国学者の宇野哲人以降で、さほど昔からではない。1906年の中国旅行記で、宇野は孔子の教えを真に体現しているのは日本だけだと言いきっており、そのことは日本人が元首である天皇に仕えている様子からもみても明らかだと述べている。

 曲阜を眠ったような地方の場所から、神聖で活気のある史跡に変えていこうという石原の計画を筋立てて考察していくには、ここで中国人の儒教離れというかれの受け止め方を紹介しておく必要がある。

 石原は中国人の儒教離れは、明時代(1368-1644)以降から始まっており、それがますます激しくなったのは、近代にはいって西洋の考え方(と物質文明)が流入し、中国の文人のあいだで儒教批判が盛んになってからだと解釈している。

 石原は中国の民衆も政府も、地域にある孔子廟や聖蹟にまったく関心をもっていないと批判している。ここでかれは「人民(朝野を含めて)の関心はほとんど無である」という言い方をしているが、ここでいう「人民」とは、日本と対立している共産党、国民党双方の党派を含む、中国のすべての人びとを指しているのだと思われる。

 曲阜が日本の占領下にあり、孔子の77代目の直系子孫が反日抵抗運動で重慶に逃れていたときに、曲阜の孔子廟に行きたいと思う中国人はまずいなかっただろう。

 そのことに気がついていたら、石原はそう書いていなかったにちがいない。この記事には孔徳成の写真も載っており、石原はかれが重慶にいるのは蒋介石に拉致されたのだと思っていた。

 生存する直系の子孫がいないまま孔子廟を重要な歴史遺産とみなす考え方は、日本人が帝国規模でおこなった改造のやり方を象徴している。日本人はかつて地元社会で、宗教的、政治的、文化的な役割を活発に果たしていた場所を、以前の機能を無視して、観光客の行きやすい場所へと変えてしまっていた(といっても孔府や孔子廟は筆頭の男子後継者がいなくても戦時の中国で機能を果たしつづけたのだが)。

 こうしたやり方のさらに驚くべき例は、朝鮮の宮殿の運命であった。

 宮殿はかつて王族や女官、召使いの住まいであり、朝鮮の政庁や社会にとって、重要な儀礼がおこなわれた場所だったが、その建物は日本の植民地当局者によって壊されるか、改造されるかして、歴史遺産に変わり、観光客が見て回るだけの役割しか果たさなくなっていた。

 石原が孔子廟の重要性をはっきりと取りあげたのは、南京の新国民政府にたいしてだけではなく、日本の当局者にたいしてでもあったと思われる。

 石原は「日本の努力により支那人が儒教を形の上から心の上にまで支配せしむる」などとあからさまに述べ、日本人が指導的役割を果たすよう求めている。

 このことを念頭に置きながら、石原は曲阜の孔子廟を「伊勢化」するよう訴えた。かれは孔子廟を、日本人にとっての伊勢神宮と同じく、中国人にとっての国廟に変えるよう提案している。それによって、そこを中国人が「必ず一生に一度はここに参拝しなければ恥である」ような場所にしたいという。

 伊勢神宮は神道でもっとも神聖な神社である(皇統とつながりのある天照大神が伊勢の内宮に祭られていた)。そして伊勢は近代になる前でも、多くの参拝者を引き寄せていた。

 1930年代から40年初めにかけての観光ブームでは、威信という点で天皇家にかかわるすべての場所の声望が高まったが、伊勢神宮は日本でとりわけ人気のある旅先となった。1940年に伊勢を訪れる人は400万人を超えている。 (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。

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筆者

ケネス・ルオフ

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

1966年、米国ニューヨーク州生まれ。ハーバード大学を卒業、コロンビア大学で博士号を取得。専門は日本近現代史。1994~96年、北海道大学法学部の助手・講師をつとめる。2004年、大佛次郎論壇賞受賞。現在、オレゴン州のポートランド州立大学教授兼日本研究センター所長。 訳書に『紀元二千六百年――消費と観光のナショナリズム 』(朝日選書、訳・木村剛久)、『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』(岩波現代文庫、監修・高橋紘、訳・木村剛久、福島睦男)