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[9]結論――観光旅行から見える近代性と帝国

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 現在、瀋陽(旧奉天)には中国の反日抗争を記念する「9・18歴史博物館」がつくられている。南京には「南京大虐殺記念館」がある。

 そして、1949年以降の曲がりくねった歴史のなかで、プロレタリア文化大革命(1966-76)のときの敵意に満ちた反儒教運動もあったものの、中国共産党は孔子や孟子にまつわる曲阜周辺の場所を、尊重すべき歴史遺産として位置づけるようになった。

「九・一八歴史博物館」を訪れた子供たち=遼寧省瀋陽市「9・18歴史博物館」=遼寧省瀋陽市
 中国共産党は現在では儒教を、中国の古くからの偉大な文明の成果と持ちあげるようになっている。

 中国の瀋陽や南京などにある戦争博物館では、いまや日中戦争における正義は中国側にあったとされているが、奇妙なことに中国側がナショナリズムを強調する文脈は、戦時中の日本人観光客が大陸の戦跡や記念碑の場所で出合った愛国的メッセージをそっくり裏返したものになっている。

 曲阜に関しては、中国のなかで石原巌徹の提案を知っている人がいるとは思えない。日中戦争のさなか、一人の日本人評論家が現在中国の代表的な聖蹟のひとつについて、観光と思想性を開発する最初のマスタープランと目されるものをつくった。そのことに興味を覚える人は、中国では現在まずいないだろう。

 しかし、中国大陸への観光旅行とその奨励という物語は、戦時日本について何を教えてくれるのかということに立ち戻ることにしよう。

 まず第1に、観光旅行から出版にいたる多くの消費形態は、戦争の遂行を妨げると解釈されていたどころか、むしろ戦争を支えると考えられていたということだ。実際、帝国の全域においてそう思われていた。

 中国との全面戦争が始まってから5年ほどのあいだ、観光旅行は盛んにおこなわれ、戦争によって歴史遺産の光景は広がった。

 たとえば史跡観光は、愛国的な国民性を養成するという観点から正当化された。このなかには帝国内の旅行も含まれており、それは日本人に帝国の事業について学ばせるうえで有効だとされていた。教育的要素をもつ消費形態は、少なくとも戦況が絶望的になるまでは、全面的な戦争遂行にとってしばしば有益と考えられていた。

「自主的な国民養成」としての史跡巡り

 史跡巡りはけっきょくのところ政治的行動であって、これが第2の要点となる。

 国のさまざまな関係者が、観光の光景や、観光促進の印刷物、史跡の伝えるメッセージに影響を与えるにしても、観光旅行は言うまでもなく自発的な行動であって、そのことが観光のもつイデオロギー的な役割をとりわけ興味深いものとしている。

 帝国内のあらゆる史跡を巡る日本人は、「自主的な国民養成」の一過程に参加しているのであって、それを通じて、かれらは都合よくつくられたさまざまな物語を学んだ。

 そこには国史(そのなかには日本がいかにして帝国の地位を獲得し、なぜ帝国を維持していく義務があるのかという記述も含まれていた)や、アジア文明の守護者としての日本の役割、さらに近代化に立ち後れた人びと(中国人も立ち後れた人びとであって、ともかくも石原によれば、中国人には自分たちの歴史遺産の価値を知らしめる必要があったという)を領導する日本の役割についての物語が含まれていた。

 旅行者として日本人の多くは行動的な存在であり、近代性と帝国、さらに戦争という燃えあがりやすい混合物のあいだを自主的に動き回っていたのである。

戦時は「暗い谷間」だったのか

 第3に、観光旅行の活発さは、戦時日本を記述するさいの「暗い谷間」という言い方が、全面的に再考されるべきものであることを示している。

 「暗い谷間」とは、戦時の日本を、日本人のほとんどがどうしようもない苦難を味わっていた時期だとして、しばしば用いられ、まちがったまま安直に使われてきた言い方である。研究者たちはだんだんとこの「暗い谷間」という概念を避けるようになり、どんな場合でも、こうした言い方をしなくなりつつある。

 しかし、戦時日本を研究した筆者の感覚でいうと、戦時日本はすべてにわたって荒涼とした時期であり、その意味で暗い谷間にちがいなかったというとらえ方は、傾向としてはまだ根強く残っているように思われる。戦争はすなわち悪いものととらえられており、したがって戦争に巻きこまれた者にとって戦時は災厄だったにちがいないというのである。

 しかし、こうした想定は、必ずしも戦時日本の多くの人びとが実際に状況をどうとらえていたかということを必ずしも反映していない。少なくとも日本にとって戦況が決定的に不利になるまでは、事態はそうではなかったのである。

 思想弾圧を受けた知識人や、飢饉に苦しんだ東北の農民、さらに何より植民地の多くの帝国臣民にとって、戦時日本は暗鬱だったにちがいない。

 しかし、余暇に日本国内を旅行する何百万もの日本人、さらには日本の支配下にある外地を旅する何十万もの日本人にとって、それははたして気の滅入る時期だったろうか。当時の旅行記はまったくその正反対の状況を示唆している。

 第4に、帝国日本の歴史記述にみられる最近の傾向としては、日本の内地、ないし中心部と帝国との相互関係に重点が置かれるようになった。

 これは意義深いアプローチではあるが、こうした歴史記述の仕方を、とりわけ帝国全域に枠を広げて実際にやろうとしても、そう簡単にはおこなえない。しかし、観光旅行は日本の内地と帝国(各植民地と日本の統制下にあったそのほかの地域)をみごとにつなぐ、ひとつの手段であった。

 たとえば、ここで軍はともかくとして、帝国全域に広がる数少ない組織のひとつであったジャパン・ツーリスト・ビューローについて考えてみることにしよう。

 ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB、日本旅行協会)が発行する旅行宣伝雑誌『観光東亜』の1940年1月号に掲載された広告によると、JTBには東京本社に加えて11の支社があり、そのうち3つが外地の奉天、ソウル、台北に置かれ、さらに帝国全域で137の案内所があったことがわかる。そのうち半分以上の69の案内所は、外地にある日本の支配地域におかれていた。

 そうした案内所は、1940年の時点で旅行者を引きつけたと思えないような場所、たとえば内モンゴルにも置かれていた。帝国日本とJTBというような研究が1冊の本にまとまるならば、帝国日本を島国の枠をはずして帝国として研究する文献が次第に増えていく喜ばしい方向が生まれていくかもしれない。

観光旅行研究の価値

 最後に、観光旅行は戦時日本における近代性の広がりをはかる尺度となる。戦時日本においては、「万世一系」をうたった紀元二千六百年記念式典中のロマンチックな国家主義や神秘主義的な物言いがごく一般的にみられた。そのため、研究者はこの時期を近代性の退潮期と誤って理解することもあった。

 しかし、日本の起源を語るロマンチックな言説レベルの下には、大衆的な観光旅行の広がりに示されるように、世界でもっとも近代的な社会のひとつを見いだすことができたのである。1930年代後半には、日本の内地だけではなく、外地をも目指す余暇旅行がパッケージ商品として売りだされ、中産階級以上の人びとによって、常に購入されていた。

 歴史学者による近代性の定義は、きちんと定まっているわけではない。しかし、観光旅行はたしかに、近代性の証拠として提示されることの多いさまざまな特徴とつながっている。

 旅先に観光客を運ぶ汽船、汽車、飛行機、それに観光客を名所に案内するバスにしても、そこには産業化の広がりを感じさせる。歴史遺産巡りは、政治参加の拡張にとどまらず、国民意識や近代性の特徴をも物語っている。

 さらに大衆的な史跡観光にせよ、いかなるかたちでの大衆的観光旅行にせよ(膨大な旅行宣伝用印刷物を含めて)、観光旅行は近代社会特有の傾向といえる大衆社会の広がりを示す現象なのである(日本は1940年ごろには、まちがいなく、世界でも有数の大衆社会になっていたといえる)。

 第二次世界大戦で崩壊する以前から、日本には多くの人びとを引きつける国際的な観光コースがつくられていた。しかし、帝国内の観光旅行を見るだけでも、当時、世界が次第に統合されつつあることがわかり、それもまた近代性の特徴であることが理解できるだろう。

 20世紀にはいっての近代性を論じるためには、単に帝国主義を規定するだけで間に合うとは思えない。

 というのも、この時期、世界の大半は植民地化されているか、そうでなければ植民地を所有しているかのどちらかだったからである。観光旅行の研究がとりわけ価値があるのは、近代性と帝国がどのような相互関係にあるかについての考察を導いてくれるからである。(了) (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。