2015年04月03日
私が2012年11月の中東取材で「サラフィー主義の台頭」に取材の焦点を絞った理由は、「アラブの春」と呼ばれる若者たちのデモによって始まる一連の政治的激動の中で、サラフィー主義の台頭が最も衝撃的であり、最も理解しにくい出来事だったからだ。
若者たちが強権体制に対して「自由と公正」を求めて立ち上がったことは、世界中の共感を呼んだ。強権体制が倒れた後で、チュニジアでもエジプトでもリビアでも自由選挙が行われたことも、新しい時代の幕開けを実感させた。
ところが、エジプトでは革命後初の議会選挙で、498議席のうちイスラム穏健派組織のムスリム同胞団が創設した「自由公正党」が213議席(43%)の議席をとり、圧倒的な第1党となった。それに続く第2勢力は、サラフィー主義の「ヌール(光)党」や、元過激派の「イスラム集団」がつくった政党「建設発展党」などがつくる「イスラムブロック」で、25%の議席をとった。
ムスリム同胞団は1928年にエジプトで創設されたイスラム組織であり、全国組織を持ち、ムバラク時代も弾圧されながらも野党第1党だったのだから、ムバラク政権が倒れた後の自由選挙で勝利したことは、自然な成り行きでもあった。
一方、サラフィー主義者は、男性は長いあごひげを蓄え、女性は目だけを出すヌカーブといわれるベール姿が代表的な外見であり、国民性や宗教的に穏健なエジプトではごく少数派という印象だった。
ムバラク時代には、サラフィー主義の政党はなく、選挙に参加した経験もなかったのだから、選挙での影響力は限られていると考えていた。ところが、ふたをあけてみると「イスラムブロック」が4分の1の議席をとるという予想もしない結果になった。
「イスラムブロック」ではアレクサンドリアで生まれたサラフィー組織がつくったヌール党が100議席をとって一躍大政党となった。
同じブロックの建設発展党は13議席だったが、この議席数はリベラル派や左派、ナセル主義者ら、どの既存の世俗派政党よりも数が多かった。建設発展党の母体であるイスラム集団は、1990年代後半に武装闘争を放棄したとはいえ、97年にルクソールで日本人10人を含む外国人観光客61人を無差別に殺害したテロ事件の実行組織である。
イスラム集団が選挙という形で政治の表舞台に出てきて、2桁の議席を得たことだけを見ても、「アラブの春」でのサラフィー主義の台頭は、中東政治の新しい面を見せる出来事だった。
タハリール広場で「イスラム法の実施」を求めるサラフィー主義者の大規模なデモを取材したのは、その台頭ぶりを実感する出来事だった。
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