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核実験の悲劇の地 南太平洋の体験

鎌田慧 ルポライター

核被害の記憶を刻む記念碑(ピースボート提供)拡大核被害の記憶を刻む記念碑(ピースボート提供)
 南太平洋に浮かぶ、仏領ポリネシア・タヒチ島。首都パペーテ港の南3番埠頭(ふとう)から、街はすぐ目の前である。船を降りて、レストランやお土産屋、銀行や観光案内所など、軒の低い建物が立ち並ぶ海岸通りを10分ほど歩く。

AJWフォーラム英語版論文

 海に面した公園の一角に、マホガニーの巨大な板に彫刻を施した、高さ3メートルほどの記念碑が、3本並んで立っている。「1966年7月2日広場」である。

 ムルロア環礁で、はじめてフランス軍の核実験がおこなわれた負の記念である。その日からはじまった、被曝(ひばく)者の記憶が刻まれている。

 記念碑の前が円形の祭壇(ポリネシア・マラエ)には、大小さまざまな石が置かれている。太平洋の島々では、訪問先へ自分の島の石を友情の証しとして持参する風習があるのだ。

 それらの石はムルロア、ファンガタウファなど仏領の島々ばかりか、アメリカ軍が核実験をおこなったビキニ環礁、エニウェトク環礁、ジョンストン島、イギリスのモンテ・ベロ島、クリスマス島、さらに実際に原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキ、最近のフクシマの石も置かれている。

 わたしは、地元の被害者団体「ムルロアとわたしたち」のメンバーと日本のNGO「ピースボート」の代表と一緒に花束を添えて慰霊した。

 南太平洋では、フランスがポリネシアで211回、アメリカがマーシャル諸島、キリバスで107回、イギリスがミクロネシアで38回など合計350回以上の核実験を行った(前田哲男著『棄民の群島』による)。

 実験作業に従事したポリネシアやミクロネシアの住民が被曝し、緑豊かな美しい島々は、植民地支配の最後の負の遺産ともいうべき、核実験の悲劇の地にされた。

 アイゼンハワー・アメリカ大統領が、「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)を宣言したのは、1953年だった。が、翌年3月1日、ビキニ環礁のナム島で、米軍の15メガトンの水爆実験がおこなわれ、「ブラボー実験」と名付けられた。

「白い雪」が降った

 米軍は成功に拍手喝采だったかもしれない。しかし、この実験で爆心地から約200キロ離れたロンゲラップ環礁では、ヤシやパンやバナナの木の葉の上に、雪のような死の灰が降り続けた。被爆した86人の島民は、脱毛、嘔吐(おうと)に苦しみ、「ヒバク難民」となって故郷に帰り着いていない。

 白い雪はおなじ時、おなじ環礁内で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」にも降り注いだ。この乗組員23人のほか、900隻、推定2万人にもおよぶ日本漁船の乗組員の被害の実態は、闇に閉ざされたままだ。

 3月1日は、第五福竜丸遭難の記念日であり、3月12日は、福島原発連続爆発事故の4周年であった。

 パペーテにある、1966年7月2日広場は、昨年、ガストン・フロス仏領ポリネシア前大統領が、撤去することを閣議決定した。そのあと、世界的な反対運動が起きたが、大統領が不祥事によって失脚、破壊、撤去は免れた。

 いまだ核兵器依存の悪癖は、除去されていない。人類は原発をふくむ、もっとも危険な核施設を捨てるほどに、賢明になっていない。

 「原子力の事実を知った市民は、きっと死のためではなく生のために行動してくれるであろうと信じている」(アイシュタイン。1947年、雑誌アンケートに答えて) 

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本論考はAJWフォーラムより転載しています

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筆者

鎌田慧

鎌田慧(かまた・さとし) ルポライター

1938年青森県生まれ。ルポライター。早稲田大学を卒業後、業界紙、雑誌記者をへてフリーランスに。労働問題、公害など社会問題に取り組み、1970年代初めからは原子力発電の危険性を鋭く指摘してきた。著書に『自動車絶望工場』『日本の原発危険地帯』『六ケ所村の記録』など。