山田健太(やまだ・けんた) 専修大学人文・ジャーナリズム学科教授(言論法、ジャーナリズム研究)、日本ペンクラブ専務理事
1959年生まれ。主な著書に「放送法と権力」「見張塔からずっと」(いずれも田畑書店)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
自由な放送をいかに守るか
3月27日(金)放送のテレビ朝日系「報道ステーション」のなかで、当番組のコメンテーターで元経済産業省官僚の古賀茂明氏とキャスターの古館伊知郎氏が、古賀氏の「降板」をめぐってバトルを繰り広げた。
発言内容は、活字の世界では一般に言われているようなレベルにすぎないものであったが、生放送時のハプニングであったこともあり、ネットをはじめ新聞等でも問題視され、さらに政治の場においても取り上げられるに至っている。
確かに番組中の二人のやり取りは、視聴者不在の舞台裏の出来事に類するものも含まれてはいた。
売り言葉に買い言葉の「口撃」は人によっては醜くも映ったであろう。
そして何よりも、このやり取りによって、結局一番「損」をしたのはテレビ朝日で、逆に「得」をしたのが政府だとすれば、それは発言目的とは異なるのではないか。
しかもそれは漁夫の利そのもので、仲間割れをしているうちに労せずして口論した2人の「共通の敵」に成果を与えてしまったことになる。
客観的にみて、現政権の原発や基地政策に対して最も批判的な定時番組のひとつが「報道ステーション」であるといえるだろうし、それを政権が快く思っていない節があるからだ。
後述する通り、この間の「異論」を認めない政府の態度や、そうした「強い政府」を歓迎する世間の空気の中で、もっとも自由であらねばならないはずの新聞やテレビといった言論報道機関の間で自信の喪失がみられ、総崩れの様相を見せ始めている。
そうしたなかで起きた今回の「事件」は、むしろこのままでは政府には攻撃の材料を与え、局内には委縮のきっかけを振り撒く結果になるのではないかとの不安がよぎる。
その点において、古賀氏の行動は本人が明確にしている敵に塩を送る結果となった、不可解な行動であったということができるだろう。
以下、3つの側面から今回の「事件」を考えてみたい。
古賀氏は、官邸から放送局に圧力があり、それを受けて社の上層部が番組の制作現場に介入した旨の発言を行った。
これはまさに番組編集の独立、あるいは編集権の問題である。自由な放送の根幹は、この編集・編成の独立にあるといえるが、これには大きく、「外からの自由」と「内からの自由」がある。
前者は、為政者をはじめ、公党をはじめとする社会的勢力、スポンサーなどが考えられ、今回の古賀発言の場合は「官邸」がこれにあたる。後者は、社のオーナーや株主といったステークホルダーのほか、社長等の経営幹部が制作現場に対する口出しをした場合などが該当し、今回の場合は「社上層部」ということになろう。
経営陣が番組内容を変更したいと思った場合、人事を通して編集・編成方針を変更することは、まさに経営者としての権能としては認められているところであって、それ自体を問題視することも困難といえる。
しかし、こうした人事が外部の意向であったり、「忖度」で起きる場合がないとは言えず、これらは一般に水面下で進行することから、結果として広く現場に「萎縮」効果を生むことが懸念される。
それだけに経営陣は、こうした懸念を完全に払拭する必要があるし、そうした疑念を生まないための信頼感を現場とともに視聴者から得る必要がある。
その意味では今回、キャスターや会長の一連の放送局側の発言は、こうした疑いを拭い去るには
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