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パレスチナの現場に行く

 2001年4月にエルサレム特派員となった。2000年9月から第2次インティファーダ(反占領闘争)が始まっていた。カイロ駐在を1998年1月に終え、3年余り東京本社で勤務した後のエルサレム駐在である。

 カイロ駐在では大きな区切りに主にパレスチナ側を取材していたが、エルサレム駐在となれば、毎日がパレスチナ問題で、イスラエルとパレスチナの両方を見なければならなかった。それもオスロ合意から7年たって衝突が日常化し、和平合意の無残な末路を自分の目で見ることになった。

 第2次インティファーダは暴力的で陰惨なものだった。イスラム過激派が、イスラエルで市民を標的とする自爆テロを続けた。1987年に始まった第1次インティファーダは少年たちが石つぶてでイスラエルの戦車に立ち向かうイメージから「石の革命」と呼ばれて世界の支持を得たが、第2次では、パレスチナは過激派のテロによって国際社会の共感を失うことになった。

 当時、イスラエルの首相は、軍人の猛将として知られたシャロン首相だった。エルサレムの旧市街にあるイスラムの聖地に立ち入って、第2次インティファーダのきっかけをつくった人物である。

 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻の時にシャロン氏は国防相として指揮をとり、ベイルートからアラファト議長が率いるPLOを強制退去させた。それ以来の怨念の対決だった。私がエルサレムに赴任する直前の2001年2月、イスラエル首相選挙で、リクード首相のシャロン氏が首相となったときは、これで「シャロン対アラファト」の対決を見ることになると考えたものだ。

 パレスチナの過激派がテロ戦術をとれば、シャロン氏に軍事力を使う口実を与えることは目に見えている。パレスチナ過激派がイスラエル市民を標的にするテロは肯定できないが、問題の始まりがイスラエルの占領にあることは言うまでもなかった。

 しかし、占領自体は日常化し、ニュースにはならなかった。

 エルサレムの事務所にいる限り、ニュースの発端はパレスチナ側の攻撃であり、その報復としてのイスラエルの攻撃という形になる。

 問題が占領から始まるという現実を日本の読者に伝えるためには、できるかぎりヨルダン川西岸やガザのパレスチナ自治区に行くしかないと考えた。

 エルサレムからヨルダン川西岸の中心都市ラマラやベツレヘムまでは15キロ、ガザまでは70キロである。途中でイスラエル軍の検問があるが、西岸には車で30分、ガザにも1時間あればたどり着く。占領の実態を知らせるためには、パレスチナの現場に行くしかないと考えた。

 日本とイスラエルの時差の関係で、翌日の朝刊用の原稿を昼過ぎには送らねばならなかった。ヨルダン川西岸なら朝早く出発して、午前中に現場を見て、帰ってくることができる。ガザに行くにはその日の原稿を送ってから午後遅い時間に出発して、夕方の日没前に現場を見ることができた。

イスラエルに対するアメリカの影響力

 4月16日夕、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザの北東部に地上部隊を入れ、17日も占拠を続けた。ガザ自治区からイスラエル領内に迫撃弾が着弾した後、発射地点とみられるガザの北東部のベイトハヌーンに地上部隊を突入させた。

 イスラエル軍がパレスチナ自治区に入って部隊をとどめるのは1994年5月のパレスチナ自治実施以来初めてとなった。イスラエル軍は撤退の期限を明示せず、パレスチナ自治政府は「再占領だ」と非難した。

 17日午後、エルサレムを出てガザに向かった。途中で、電話で話を聞いたイスラエル紙の軍担当の記者が、「米国から圧力がかかり、イスラエル軍は間もなく撤退するだろう」という情報を教えてくれた。

 強硬派のシャロン首相がそう簡単に退くはずもないので半信半疑だった。しかし、ガザに入った時には、すでに撤退が始まっていた。

 この時は、ガザの検問で待っていたパレスチナ人の助手と一緒に、イスラエル軍が撤退を始めたばかりのベイトハヌーンに直行した。

 <農業イブラヒム・アブドラさん(70)は18日、イスラエル兵が撤退したと聞いて、午前6時に家に戻ってきた。1棟のコンクリートの家には大きな穴があき、家族が寝ていたトタン板の小屋3棟は跡形もない。家の周りのオリーブの林は、ブルドーザーで更地になっていた。
 イブラヒムさんは17日午前5時ごろ、銃の連続音で目が覚めた。気づいた時には家の前に数台の戦車がきていた。着の身着のままで逃げ出した。
 「砲撃の音は聞こえていたが、軍同士の戦いと思っていた。なぜ、私の家が狙われたのか」
 ベイトハヌーンにある8カ所のパレスチナ治安部隊の施設はすべて破壊されていた。イスラエル軍は治安部隊が迫撃砲攻撃に関与していると非難する。廃虚となった本部にいた部隊長(44)は、「戦車が入ってくれば逃げるだけだ。我々が持っているのは、これだけだ」と肩から下げたカラシニコフ銃を見せた。
 イスラエル軍によってネツァリームやグシュカティーフなどユダヤ人入植地に通じる道路が封鎖され、18日も自治区は分断状態が続いている。ガザ市のすぐ南の検問場所で国連のバスが5台止まっていた。1台に乗っていたハンユニスの診療所に行くという看護婦マハさん(28)は「もう3時間も止まったまま。患者が待っているのに」>(2001年4月19日付「朝日新聞」朝刊)

イスラエル軍の侵攻と攻撃によって家を破壊されたパレスチナ自治区の住民=2001年4月18日、ガザのベイトナヌーンで=撮影・筆者拡大イスラエル軍の侵攻と攻撃によって家を破壊されたパレスチナ自治区の住民=2001年4月18日、ガザのベイトハヌーン、撮影・筆者
 パレスチナに入って取材をすれば、イスラエル軍の侵攻や攻撃にはなすすべがないパレスチナ側の現実が見えてくる。

 迫撃砲を打ったのはパレスチナ過激派であるが、それによるイスラエル側の被害はなかった。

 しかし、イスラエル軍はパレスチナ自治区に侵攻し、過激派を抑えるはずのパレスチナ警察の施設を破壊する。

 道理が通らない攻撃としか思えないが、シャロン政権は一貫して、アラファト体制を無力化しようとする。

 しかし、この時にはまだ、イスラエルに対する米国の影響力は大きかった。

 イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザの一部を占拠したことについて、当時のパウエル米国務長官が「過剰で不相応な反応だ」として批判する声明を出していた。

 イスラエル放送は、「テロの拠点への軍事作戦が終わり次第、撤退するように首相と国防相から命令が出た」と報じた。イスラエルのシャロン政権でさえ、米国の意向に従ったのである。

 この時のことは、米国がイスラエルに対して決定的な影響力を持っていたこととして記憶にとどまった。そうではなくなるのは、この年の9月11日にあった米同時多発テロの後だ。ブッシュ政権が対テロ戦争を展開する過程で、米国はイスラエルに対する影響力を失っていった。

現場に行く意味

 中東の現場に行って、息をのむ光景に出合うことは多い。2002年7月にガザで見たイスラエル空軍のF16戦闘機が1トン爆弾を落とした現場は、その一つである。

 イスラエル軍はハマスの武装部門のトップを殺害したと短く発表した。しかし、ガザからは武装部門のトップだけでなく、彼の妻と娘の他に周辺住民を含めて15人が死亡し、数十人が負傷したというニュースが入ってきた。

 一報はイスラエル軍の発表と、現地からの情報を合わせて記事を書いた。空爆直後のイスラエル各紙は情報関係者らの話として「シャハダ家の周りは空き地」などと伝えた。しかし、ガザに行って空爆の現場を見ると、事実は全く違っていた。

 現地はガザの住宅地で、大きな通りから狭い道を入ったところだった。いきなり、約30メートル四方ががれきの山になっていた。 ・・・ログインして読む
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筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

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