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アラファト議長との深夜の会見

 イスラエルが自治政府との「関係断絶宣言」をした後、アラファト議長が「武装闘争禁止」の声明を出した。2001年の年末から02年の年始は久しぶりに「停戦」が続いたが、それも1月10日に崩れた。

 その3日後に、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラの議長府でアラファト議長にインタビューをする機会が訪れた。

 1993年9月にワシントンで行われたオスロ合意の調印式の前日に議長が在米パレスチナ人に向けて演説するのをまじかに見てから8年が過ぎていた。オスロ合意の調印の時に60代前半だった議長は、すでに72歳になっていた。

 議長はゲリラの指導者だったころから、幾多の危機を乗り越えて「不死鳥」と言われた。

 最大の危機は1982年のイスラエル軍のベイルート侵攻で、議長が率いるPLOはイスラエル軍に包囲され、集中攻撃を受けた。

 イスラエルのシャロン氏が国防相としてレバノン侵攻を指揮した。その時、PLOはベイルートから退去することになるが、それから20年を経て、シャロン氏は首相として、議長府から500メートルほどの距離にイスラエル軍の戦車を配置して、議長を実質的な自宅軟禁状態においている。イスラエル軍のラマラ包囲は、アラファト対シャロンという宿敵による、ベイルート包囲の再現となっていた。

 アラファト議長へのインタビューの申し込みは常時出していたが、この日の朝、突然、議長府の報道担当から電話があり、ラマラのホテルで午後1時に来るようにという連絡があった。この日、議長がインタビューを受ける可能性がある、ということだった。これは議長の気が変わったり、情勢が急変すれば、いつでもキャンセルされることを意味していた。

ヨルダン川西岸のラマラにあるパレスチナ自治政府議長府で未明のインタビューに応じたアラファト議長=2002年1月13日未明=撮影・筆者拡大ヨルダン川西岸のラマラにあるパレスチナ自治政府議長府で未明のインタビューに応じたアラファト議長=2002年1月13日未明、撮影・筆者
 エルサレムとヨルダン川西岸の間にあるイスラエル軍の検問を越えて、ラマラの指定されたホテルのロビーについて、報道担当に到着を伝えた。こちらから連絡するまで待てということだった。

 報道担当から連絡があったのは夕方6時で、「議長府に来い」という。

 入り口での厳重な持ち物検査の後、議長府に入ることができて、やっとインタビューできるのか、と思ったが、議長府の廊下で待たされたまま、1時間、2時間待っても動きはない。

 10時ごろになって「晩餐だ」と言われた。晩餐などどうでもいいのに、と思いながら、案内された部屋に行くと、四角い大きなテーブルがあり、向こう側にアラファト議長が座っていた。 ・・・ログインして読む
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筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

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