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ユダヤ人入植者を訪れる

 2002年春のイスラエル軍によるヨルダン川西岸への大規模侵攻によってパレスチナ人の若者たちが希望を失っていく様子を書いてきたが、一方のイスラエルの若者たちはどのように生きているのだろうか。

 そんなことを考えたのは、2002年5月、ガザにあったネツァリムというユダヤ人入植地の取材をした後だった。

 イスラエルは1967年の第3次中東戦争の後、ヨルダン川西岸、ガザ、東エルサレムを占領した。その後、占領地に入植地をつくり続けてきた。占領地への入植地建設はジュネーブ条約違反とされ、国連安保理も80年にイスラエルに対して入植活動の停止を求める決議を出している。

 しかし、1993年にオスロ合意を締結した後も、イスラエルは入植地を増やしている。イスラエルの占領はいつのまにか入植地の維持が目的のようになり、兵士は入植地につながる道路に二重、三重に検問を置いて、入植地防衛が主要な任務となっている。

 イスラエル軍の軍務拒否の主要な理由として必ず「入植地を守ることは国を守ることではない」という項目が入ってくる。

 ガザ自治区中部にあるネツァリムはパレスチナ住民の憎しみをかっている入植地の代名詞である。

 イスラエルのカルニ検問所からイスラエル軍の四輪駆動車が護衛する防弾バスに乗った。「道路わきからテロリストの銃撃は毎日のようにある」と、同行した軍の広報担当が言う。

 ネツァリム入植地の取材は軍に取材申請を出して、認められる。10分でネツァリム入植地に到着。白い壁の住宅が並ぶ。1キロ四方に約50家族、300人弱が住む。軍隊は1大隊(400人規模)がいる。住民より兵士が多い。

 入植地は高さ3メートルの金網で囲まれている。金網沿いに四輪駆動車で走る軍のパトロールに同行した。

 南東の角からパレスチナ人の村「バクシ(アラブ名・ムグラカ)」が見える。兵士が機関銃を構えて24時間態勢で見張る。村との間はブルドーザーで整地され、視界をさえぎる物は何もない。「近づく者はテロリストの可能性が高い」と見張りの兵士が言う。不審な動きがあれば銃撃する。

 入植地の北東の角では私が入る2週間ほど前の4月下旬の深夜に、腹ばいで200メートルまで近づいてきた14歳と15歳のパレスチナ人の少年3人が射殺された。おのを持っていたという。

 入植地北部にはビニールハウスが並ぶ。毎朝70~80人のパレスチナ人が近くの村から来て労働者入り口に並んだ。3月10日に労働者に交じった武装メンバーが兵士を射殺した。それ以来、入り口は封鎖されている。

 この年は2月と3月に入植地の道路でイスラエル製のメルカバ戦車が土中に埋められた強力爆弾で吹き飛ばされ、それぞれ乗員3人が死亡した。世界最強の「メルカバ」が破壊されたのは、パレスチナ地区ではここだけだ。それが2回も起こった。「テロリストが夜間に少しずつ爆発物を運んだのだろう」と、指揮官のタル・ヘルモニ中尉が語った。

 中尉は1枚の写真を見せた。深さ3メートル、直径10メートルの地中の穴だ。「先週土曜日に道路わきで爆発した跡だ」と説明した。100キロの爆発物で戦車を狙ったという。パトロールの車が通過した後に爆発し、けが人はなかった。武装勢力は地下排水溝を伝って爆弾を運んだという。「まるで映画のようだが、だんだん作戦が巧妙になっている」と分析した。

 ネツァリムのように自治区内で孤立した入植地を撤去せよという議論がある。中尉は「我々は政府の決定に従って市民を守っているだけだ」と硬い表情で答えた。

 入植地の中に入る。シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)の近くで、子供たちがおもちゃのバイクで遊んでいた。平和な光景だが、シナゴーグの近くで3月29日に70代の2人の住民が、侵入したパレスチナ過激派に刺殺された。

ザにあったネツァリーム入植地を取材した記事。左下にパレスチナ側から見た記事も=2002年5月10日付、朝日新聞拡大ガザにあったネツァリム入植地を取材した記事。左下にパレスチナ側から見た記事も=2002年5月10日付「朝日新聞」
 入植地に住んで2年半という男性ユバル・フーリーさん(34)は「ここは軍隊に守られているからテルアビブより安全だ」と言い張った。

 「私がここにいるのは、イスラエルの安全を守るためだ。ここを手放せば、いずれテルアビブを手放すことにつながる」と、シャロン首相の理屈をそっくりなぞった。

 ネツァリム入植地を見た後、一度イスラエル側に出た。

 ネツァリム入植地の様子を伝える記事は、それだけでも成立すると思ったが、入植地から見たパレスチナ側の光景が気になった。

 そのままガザ北部のエレツ検問所からもう一度ガザに入って、ムグラカ村に行った。そこからネツァリム入植地を見た。

 村の空き地にテント20張りが並んでいた。そこで暮らすナセル・ムタビアさん(50)が「3月14日にイスラエル軍に家を破壊された」と語った。入植地道路でメルカバ戦車が爆破された日だ。軍は報復としてムグラカ村の民家15戸をブルドーザーで破壊した。

 パレスチナ武装勢力にとってネツァリムは反占領闘争の標的だ。武装勢力は村の外からやってくる。イスラエル軍もそのことは知っているだろうが、見せしめとして村の民家をつぶすのである。村の住民は武装勢力とイスラエル軍に挟まれていることになる。

 入植地に最も近かった15戸が破壊された後、入植地と面する最前線になったユーセフ・ワヘイディさん(57)は、「イスラエル軍は夜7時以降我々に外出禁止令を強いている」と訴えた。

 外出禁止令は「実力行使」によるものだ。日が暮れてから動けば銃で撃ってくるのだ。屋根や壁にいくつも残る弾痕を指さしながら、「武装メンバーでもないのに、なぜ、私の生活を破壊するのか」と怒りをぶつけた。

 新聞では、ネツァリム入植地の記事の一角にムグラカ村の記事も入れた。

 ジャーナリストは誰もがそうだと思うが、私は現場で考え、発見することに最大限の努力をしてきた。ネツァリム入植地から見たムグラカ村のことが気にかかったように、現場で気にかかったことを取材しないまま原稿を書くと、記事に穴が開いているようで落ち着かない。時間の制限もあり、すべてを取材できるわけではないが、気になるということが、取材の出発点になることは多い。

ダンスクラブで出会った若者たち

 このネツァリム入植地のルポは、イスラエルの若者について取材を進めているときに、偶然、兵士として入植地を護衛している若者に出会ったことがきっかけだった。

 エルサレム駐在になってパレスチナでの取材が中心だったが、この時はイスラエルの若者たちだった。この取材は、ユダヤ人入植地とは最も遠いところにあるイスラエルの若者たちが週末を過ごすダンスクラブから始まった。

 イスラエル側の西エルサレムでは金曜日の夕方からユダヤ教の安息日(シャバット)が始まり、ほとんどの商店が閉まり、通りに人影は消え、都市は死んだようになる。

 そんな安息日のタブーに挑戦するかのように、市南東部に90年代半ば以降、世界有数のクラブに数えられるダンスクラブ「ハオマン17」がある。高校を卒業して軍に招集された若い兵士らがパーティーに集まる。

 最先端の照明機器を使い、ティエスト、ディミトリーら一流のDJを次々と招いた。高校の体育館ほどの広さのラウンジに若者たちがひしめく。ハウスやトランスといった音楽が大音響であふれ、無数の光の筋がたちこめるたばこの煙に乱反射しながら若者たちの上に降り注ぐ。

 私が話を聞いたオフェル・ビトン(21)は、ダンスクラブで「アンバサダー(大使)」と呼ばれる宣伝係をしている。

 友人や知り合いにパーティーの招待状を送り、毎回一人で150人からの客を呼ぶ。金曜日の深夜から土曜日の朝まで続くパーティー。体をくねらせる若者は通路まであふれる。「踊って、酒を飲んで、そして、また踊る。目の前の現実を忘れるためにね。テロのことや、パレスチナ地区での兵役のことを」とオフェルは言う。

 オフェルがクラブに入ると、あちこちで呼び止められる。知り合いと次々と握手をし、キスをし、時に抱き合いながら、奥に進んだ。 ・・・ログインして読む
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筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

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