70年代に示した日本人の新しい「顔」
2015年05月13日
豊かな黒髪のおかっぱに切れ長の一重瞼。パリコレのトップモデルだった山口小夜子の名前を知らなくとも、彼女の姿を見た記憶がある方は多いのではないだろうか。
また資生堂の専属モデルなどもつとめ、その後も舞踏や演劇、衣装デザイン、ナレーションに至るまで幅広い活動を行っていたが、2007年8月に急逝した。
彼女は単にモデルという枠を超えたスケールの大きな人物だったように思う。
筆者は20年ほど前、一度だけ彼女を原宿のカフェで見かけたことがあるが、圧倒される存在感があった。
1956年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述し、これが流行語となった。
確かに我が国の経済の復興はめざましく、60年代前半にはGNPでフランスを抜いたが、70年代になっても文化的には依然として欧米先進国に対して劣等感を抱いていた人が多かったのではないか。
70年には元ザ・フォーク・クルセダーズの北山修が作詞した「戦争を知らない子供たち」がフォークグループ「ジローズ」によって歌われ、大ヒットした。
戦後生まれの当時の若者たちは「戦争を知っている大人たち」からは、お前たちは戦争も知らないくせに、と頭から否定され、敗戦とGHQの影響でこれまでの日本文化を肯定できず、新しく入ってくる欧米文化には羨望と劣等感を感じていた。
当時は、今から見れば滑稽だが、日本語でロックを歌うことが可能かどうか真剣に議論されていた。新しいもの、かっこいいものはすべて海の向こうから来る。そんな時代だった。
そんな70年代初頭にファッション業界では山本寛斎、高田賢三、三宅一生などの日本人デザイナーがパリ・コレクションで頭角を現し始めた。そこにシンクロナイズするように登場したのが黒髪の山口小夜子だった。
当時の日本のモデル業界ではハーフ風のメイクや、明るく髪を染めたモデル、つまり外国人かハーフに見えるようなモデルとメイクが流行していた。だが山口小夜子はそのようなトレンドに身を任せるのを良しとしていなかった。
オーディションを次々と落ち、これでダメならと受けた山本寛斎のオーディションで仕事を勝ち取り、翌年にはパリコレにデビューを果たした。
黒髪のおかっぱ、切れ長な目、透き通るように白い肌の彼女は一躍話題をさらった。
当時そのようなモデルがいなかったから新鮮だったのだろう。彼女のマネキンまで英国で開発され、世界に輸出された。筆者も80年代のサン・トロペをはじめ、何度か、そのマネキンを目にしたことがある。
だが、他のアジア人モデルが彼女と同じような日本人形的なヘア&メイクをしても「山口小夜子」にはならなかっただろう。
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