2015年05月22日
*この連載は、2014年12月から2015年5月にかけてジュンク堂書店池袋本店で開かれたトークセッション「『文庫・新書』で知的体力を強化する!」(全6回シリーズ)の講義をまとめたものです(各回をそれぞれ4回程度に分けて再録します)。
課題図書
「メインの3冊」
池上彰『おとなの教養――私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』(NHK出版新書)
澤田昭夫『論文の書き方』(講談社学術文庫)
芳沢光雄『論理的に考え、書く力』(光文社新書)
「サブの3冊」
池上彰『情報を200%活かす 池上彰のニュースの学校』(朝日新書)
村上陽一郎『ペスト大流行―― ヨーロッパ中世の崩壊』(岩波新書)
福沢諭吉『現代語訳 学問のすすめ』 斎藤孝・訳(ちくま新書)
この講座の目的は、意欲のある人が自分で勉強する方法を身に付けることにあります。ですから、この講座はみなさんに刺激を与えるという場であって、その先は自分で勉強して力を付けていかないといけません。最終目標は、自分でテーマを設定して読書計画を立てるということになります。
毎回6冊ずつ指定する課題図書は文庫と新書に絞っていますが、講義の中では単行本も含めてたくさんの本を紹介しますので、ぜひリアル書店を使い倒してください。
書店を上手に使うことも教養の増大につながるのです。
さて、いま日本の大学は大きく変わりつつあるけれども、残念ながら知のセンターとしての機能を喪失しつつあります。
私が非常に危惧しているのは大学の授業料が急速に上がり始めていることです。
例えば私が同志社大学の神学部に入った1979年は、年間の授業料が34万円でした。ちなみに立命館大学は19万円だったから、同志社の34万円というのは結構高かったわけですが、今の同志社は年間130万円ですからね。
アメリカのハーバード大学とかスタンフォード大学になると、年間で約4万~5万ドルかかります。しかも4年間では「教養」しか勉強しないわけです。残りの専門科目は大学院に進んでから勉強する。
そうすると、少なくとも修士号を終えるまでに授業料だけで3000万円ぐらい払えないと、大学に進学できません。だから富裕層の親しかアイビーリーグに子供を送ることができないわけです。
ところがアメリカの大学も、1960年代はそんなに金がかかりませんでした。日本の私立大学と大して変わらなかったんです。
トマ・ピケティは『21世紀の資本』(みすず書房)の中で、受けてきた教育によって格差が広がっていくというアメリカの状況について説明しています。ここのところは興味深いし、私もピケティと危機意識を共有します。ただし、この人の議論が一番ずれているのは、賃金を分配の問題で見ているところです。
これについてマルクス経済学の視点から考えていきましょう。
日本には宇野学派という、かつて東京大学や東北大学、北海道大学などで強い影響力を持ったマルクス経済学の学派がありますが、その中心になったのが宇野弘蔵です。この点については彼の『経済原論』(岩波全書)や私の『いま生きる「資本論」』(新潮社)を読んでみてください。
さて、賃金には、年間1億円の賃金というのは絶対にあり得ません。1カ月働くとすると、その労働者が次の1カ月間働くことができる住宅を借り、ご飯を食べ、服を着て、ちょっとしたレジャーをする。それから家族を養って子供を育てて、子供を労働者にする。そして技術革新によって自分が知らないといけない知識が変わってくるから、それに対応した知識を身に付ける。
賃金というのは、こうしたことに必要なお金という枠から大きく乖離することはありません。これはマルクスが賃金論で展開した非常に重要な点です。
たとえばトレーダーが1億円という年収を得るということは、これは賃金じゃなくて、資本が得た利潤の分配になります。
だから分配論というのは実はマルクス経済学でいうと、資本家と土地所有者に関係あることであって、労働者には関係ないんです。だからアイビーリーグを出たトレーダーになるような人たちというのは、労働者じゃなくて資本家なんです。ピケティはそこのところを混同しているから、とんちんかんな結論になる。
彼は相続の段階で税金を思い切り取るべきだと主張しています。その相続税を徴収する主体は国家ですよね。しかし、大金を持っている連中は、バミューダなどのタックスヘイブンにお金を逃がそうとするでしょうから、そのお金を納めさせるためには強制力がないといけない。
そうすると、ものすごく強力な国家と多大な権限を持った官僚群が資本家を押さえるというのが、こうした主張のモデルになるわけです。これはイタリアのファシズム、あるいはスターリニズムに近いモデルになるかもしれない。だからピケティのモデルでは、国家が著しく肥大化していく危険性があるわけです。
フランスの文脈において官僚というのは、中学校ぐらいのときからエリート教育を受けて、その中でもトップクラスの連中がなるわけで、そういう教育を受けた官僚には一定のモラルがあるものだというコンセンサスがあるのでしょう。イギリスの貴族と一緒ですよね。ピケティはそういう文化圏から出ているから、官僚に対する危険性の認識があまりないんですよ。
それからもう一つ、国家というのは非常に利己的な存在だから、国家を超えた形で税金を徴収するというメカニズムなんてできるはずがない。例えばアメリカ政府がある人間から1億ドルの税金が取れるとする。じゃあ、中国政府はうちの国に逃げてくれば2000万ドルでいいと言うでしょう。主権国家である限りにおいて、国家ごとに税率の差というのが出てくるわけです。
このように、話題のピケティの本を読んでいても、彼が国家の危険性に対して非常に無防備であり、その問題意識がどこから来るのかということは、『資本論』の論理やその背景にある教養があれば気づくわけですね。
こうした教養に必要な「読むこと」「聞くこと」「書くこと」「話すこと」、この四つの能力はどんな学習にも重要です。このうち読むことと聞くことについては、この講座の準備をするに当たってちゃんと課題図書を読んでくれば、今の私の話の理解度も相当高まるでしょう。
だから指定しているテキスト6冊は、ぜひ読んできてください。1回の講座で、6冊の文庫・新書が読める。ただし、第2回の「『知的基礎体力』としての哲学」は、これより難しいことが考えられるだろうかというぐらいの難解な課題図書を出します。
これは一種のショック療法なんです。どうしてか? ここまでいけば完成だということが分かっていれば、怖くなくなるからです。逆に、どこまでいったら完成なのかがわからないと怖いわけです。
ヤン・アーモス・コメニウスというボヘミア(チェコ)の教育学者・神学者は世界最初の百科事典といわれる『世界図絵』(平凡社ライブラリー)を書いています。
彼は、人間は限界が分からないものに対して恐れを感じる、と言うんだけれども、よい先生というのは必ず限界を提示するものです。みなさんの最終目標はここです、ここまでいければいいんです、と。それをこの講座では第2回で提示しようと思います。
さて、読む能力と聞く能力についてお話ししましょう。この二つは受動的な能力です。
最近の日本人の英語力って実は弱くなっているんですよ。それは読むことをおろそかにしているからです。
学校英語は読むことと文法ばかりで、特に話すことに力を入れていない、と批判する人がよくいますが、おそらく今の高校の授業を見ていないんでしょうね。高校英語は20年ぐらい前から話すこと中心に変わっています。その結果、読むことと文法がすごくおろそかになっている。
赤ん坊が言葉を覚えていくとき、最初は聞いているだけです。1歳ちょっとになったぐらいで、「ばあ」とか「ぶう」とか、わけのわからないことを言って、そのうち「ママ」とか、「だめ」とか「食べる」とか断片的な言葉を1語ずつ話す。それが2語につながっていって、今度は2歳すぎたぐらいから急速に話しだすようになる。
こういう子供の言葉の覚え方からわかるように、受動的な能力が必ず先行するんです。「話す」「書く」という能動的な能力は後から付いてきます。
だから話す、書くという能動的な能力は、絶対に読む、聞くという能力を超えることはありません。だから読むことと聞くことの能力を高めておくと、それに合わせて徐々に話すこと、書くことの能力が付いてくる。
この講座では、読むことは本を読んでもらうことでできる。聞くことはこの講義を聞いてもらうことでできる。書くことはリポートでやってもらう。ただ、話すことだけは、こういう講座で力を付けるための環境も時間もないので、ここでは話すこと以外の三つの力を付けることにとどめます。
ちなみに、作家の藤原智美さんは『暴走老人!』(文春文庫)で、情報化社会についていけない老人が暴走するという作業仮説を出しています。
そしてその考え方を一層進めて、『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』(文藝春秋)というエッセーを書いている。
そこでは、SNSというのはグーテンベルクの活版印刷の発明に匹敵するぐらいの新しい時代を切り開いていると言います。そして「Facebook」とか「LINE」とかSNSは書き言葉のように見えるけど、全部話し言葉だと。単語数は著しく少ないし、文体が非常に簡単になっているし、瞬時に対応しないといけない。
その結果、書き言葉のレベルが話し言葉のレベルに落ちてくる。今までは、読む力に合わせて書くという力が付いていたのが、逆に話すことに合わせて書いたり読んだりするものだから、結局、かつてないほどのリテラシーの低下が起きている。これがネットの危険性だということを言っているんだけれども、その通りだと思います。
岡田尊司さんの『インターネット・ゲーム依存症――ネトゲからスマホまで』(文春新書)も面白いですよ。今までゲームなんかやっていると頭がゲーム脳になっておかしくなるというようなことがよく言われてきたけれども、それは必ずしも都市伝説や憶測じゃない。
実際に前頭葉をきちんと測定したデータがあって、こういう研究はどういうわけか中国がすごく熱心なんですが、そのデータからすると、ゲームには覚醒剤と同じ効果があるというわけです。
岡田さんは、最初は東京大学文学部に入って哲学を勉強したのですが、どうしても哲学は自分の性に合わないといって、東大を退学して京都大学の医学部に入り直した。そこで精神医学を専攻した後、法務省に入って、少年刑務所付のお医者さんを長いことやった。
そこでは少年犯罪を起こす人たちがどういう問題を抱えているのかをずっと調べたんですが、今のインターネットゲームの依存症と自分が臨床の現場で見てきた若くして覚醒剤をやった人たちとが非常によく似ていると。それを非常にわかりやすい言葉で書いています。
こういう本を読むと、インターネットというものが必ずしも我々の知性や教養を強化するものじゃないということが、すごくよくわかる。
とはいえ、この講義録はネット媒体の「WEBRONZA」で配信するので、誤解されないように付け加えておきますが、電子媒体というのは「BLOGOS」がいい例なんだけれども、「サイバーカスケード現象」を起こすんですよ。要するにインターネットの怖いところは、ネットで自分の好きな情報だけを見てしまって、そこで凝り固まって、自分の主張や自分の思いとだいたい同じものを読んで満足してしまうことです。
これは最終的にはポピュリズムとすごく親和的だし、ナルシシズムにもかかわってくる。「WEBRONZA」のような媒体は双方向性もあえて担保せず、編集権を行使して、専門家の目で責任あるものを提示する、という方針でやっているから、自分と違う意見の記事も読むことができる。だからその意味においては、この講座とは非常になじみがあるわけです。 (つづく)
*第2回は5月25日(月)からの週に配信します。
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