メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

フセイン像が倒された日に何があったか

 バグダッド陥落後に最も記憶に残っているのは、フィルドゥース広場のサダム・フセイン像の引き倒しの真相を探った取材である。

 フセイン政権の崩壊の象徴ともいえるフセイン像引き倒しについて、米軍や米国の広告代理店による“やらせ”という話が広がっていた。

 最初、イラク人の若者たちがロープをかけて引き倒そうとしたが、できなかったため、米兵士が像に鎖をかけ、米軍車両が引き倒した。イラク人が試みようとした場面ができすぎていたため“やらせ”疑惑が出たのだろう。その検証取材をしてほしいという注文が東京本社からきた。

 私は取材を始めることにしたが、米軍がイラク人の若者に金を払ってやらせたのならば、像を引き倒した若者たちは、米軍が連れてきたイラク人の若者であり、バグダッドの若者たちではないだろうと考えた。

 米国はイラク戦争前に米国やロンドンにいる反体制組織と連携していたから、そのルートで在外イラク人を連れてきて、フセイン像引き倒しの演出をすることはあり得ないことではない。

 米軍が入ってくる前日までバグダッド市内では公安警察などの監視網は残っていたため、事前に何らかの工作をすることはできない。取材しても、フセイン像の引き倒しに関わった若者を探し出すことはできないだろうが、その時にフィルドゥース広場にいた人々の話を聞くことで、人々の証言で「4月9日」を再現するルポを書くことはできると考えた。

 問題は、地上電話もつながっていないし、携帯電話もない状況で、どのようにしてその日、広場にいた人間を探すかである。

 当時、朝日新聞はフィルドゥース広場を見下ろすパレスチナホテルに取材拠点を置いていた。ホテルには多くの外国メディアも拠点を持っていて、仕事を待つタクシーも多かった。そのタクシー運転手を7人ほど朝から夕方まで雇って、4月9日に広場にいた人間を探してもらうように頼んだ。

 住宅地や市場やカフェなど人が集まりそうなところに行ってもらって、人探しをしてもらう。もし、9日に広場にいた人間が見つかったら、インタビューの約束をとってもらって、私が会いに行く。

 もちろん、簡単に見つかるはずもないが、毎日、夕方に運転手が戻ってきたら、一人ずつ、どの地域で、どのような場所に行ったかを報告してもらって、その日、1日分の給料を払った。運転手が本当にまじめに回っているかどうかは分からないので、2日間、回って何も成果がない運転手はやめてもらって、別の運転手に頼むという形だ。

フセイン像を倒した若者に会う

 それでも1日に2件ほどは人が見つかって、話を聞きに行った。3日目にライドという運転手から「フセイン像の首にロープをかけたという若者がいる」という知らせがあった。半信半疑だったが、若者はパレスチナホテルからサードゥーン通りを挟んで反対側に建つ高層アパート群の一つに住んでいるという。ライドの案内でアリという若者に会いに行った。

 アリは住宅地の中にある駐車場でお茶を売っている20歳の若者だった。9日の午後4時ごろ、米軍がフィルドース広場に着いたというニュースを聞いて、その地区のアパートに住んでいる顔見知りの若者たち4人で一緒に広場に行ったという。

 アリは、その時、駐車場の守衛のハリド(30)、電気工だったハイダル(27)、靴磨きのハサン(17)という3人の名前を挙げた。アリからその時の話を詳しく聞いた。

 その後、近くに住むハイダルの家を案内してもって、アリと同じように、最初から話を聞いた。翌日、ハサンの話を聞くこともできた。残ったハリドは家を訪ねても家人から「バスラに行っていて、いない」と言われ、なかなか会うことができなかった。いつ帰ってくるかを聞き、やっと1週間後に会うことができた。

 ハイダルやハリド、ハサンの3人はイスラム教シーア派で、アリは父親がスンニ派、母親はシーア派で、両親は幼いころ離婚し、母親とともに住んでいた。

 シーア派は中南部を中心にイラクの人口の65%を占める。フセイン体制はアラブ社会主義を掲げるバース党による一党支配で、宗派による差別はなかったが、人口ではフセイン大統領が出ている20%程度の少数派であるスンニ派が幅を利かせ、シーア派は抑圧されていた。

 アリは2012年秋から北部モスルに展開するイラク軍の精鋭部隊、共和国防衛隊の新兵だった。3月初めに10日間の休暇をバグダッドで過ごした後、部隊に戻ると、部隊は基地にいなかった。戦争を前に移動したと思ったが、基地の守衛も行き先を知らなかった。

 アリはそのままバグダッドに戻ってきた。実質的には部隊離脱だった。戦争は避けられない状況になっていた。初めから米軍と戦うつもりはなかった。戦争の間、警察や軍警察や秘密警察に見つからないように家から外に出なかった。米軍がバグダッドに入って来た時、「これで、もう隠れていなくてもいい」と思ったという。

 ハイダルはイラク南部の都市バスラの出身で、バスラの高校を卒業後、1年半の徴兵を終えた。軍隊で電気工の技術を習得したが、バスラでは職がなく、2年前にバグダッドに移った。政府機関や市役所の雑用を探そうと求人窓口に通ったが、「バース党の紹介状を持って来い」と言われた。戦争が始まる3カ月前にやっと民間アパートの守衛の職にありついた。「バース党体制では何も希望がなかった」と語った。

 ハリドはバスラ大学教育学部体育科卒業だったが、職がなかった。本来なら学校の教師になって中流の生活が約束されているはずだが、電気販売会社の倉庫の番人や駐車場の管理人をしてその日暮らしの生活をしていた。

 イラクは湾岸戦争までアラブ諸国でも有数の教育国だったが、湾岸戦争とその後の国連の経済制裁によって、教育は瓦解した。教師の給料はわずか5ドルから7ドルとなり、家庭教師をしたり、タクシー運転手をしたり、副業で稼がなければ生活できなくなった。

 一方で、子供を学校に通わせることができない家庭も増え、学校からドロップアウトする子供が多くなり、通りにはストリート・チルドレンがあふれた。「国が荒廃し、教育も荒廃した。戦争をしかけたサダム・フセインにすべての責任があった」と語る。

 最年少のハサンは1996年に小学2年で小学校を辞め、路上で靴磨きを始めたドロップアウト組だった。

 経済制裁下の学校では父母たちが薄給の教師に毎月お金を渡すのが慣例になった。アパート管理人で6人の子供を抱えるハサンの家は、そのお金が払えなかった。ハサンは働くしかなかった。「学校には行きたかった」と語った。

 それぞれ、フセイン体制の下で、矛盾を感じていた若者たちである。

 ハイダルによると、政府がその年の1月に「米国との戦争に備えよ」と呼びかけ、戦争態勢に入った時に、「もし、米国との戦争で、この体制が倒れたら、フセイン像を倒そう」という話をしたのだという。米兵がフィルドース広場に到着したと聞いて、「約束を実現する時だ」と思って誘い合って行ったのだ。

フセイン像の引き倒しに参加した若者たち=2003年7月=撮影・筆者拡大フセイン像の引き倒しに参加した若者たち=2003年7月、撮影・筆者
 4人の話を別々に聞いて、それをジグソーパズルのように組み合わせ、9日に何が起こったかを再現 ・・・ログインして読む
(残り:約12610文字/本文:約15579文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

川上泰徳の記事

もっと見る