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ファルージャに入る

 バグダッドの西にあるファルージャはイラク戦争の後、反米の牙城のようなイメージがあったが、その発端となったのは、2004年3月31日に、米国人のビジネスマン4人が殺害され、遺体が橋の欄干に吊り下げられた事件である。

 その後、4月5日夕方から米軍はファルージャを包囲して、掃討作戦を始め、住民による激しい抵抗が始まった。撤退を完了する5月4日までの1カ月で住民約700人が死んだとされた。

 米軍はファルージャを攻撃する理由として、国際テロ組織アルカイダとつながる組織がファルージャを支配しているとし、町をテロリストから解放する戦いだと言い続けた。

 しかし、包囲攻撃の間、唯一、ファルージャの中から報道を続けたカタールのアラビア語衛星放送アルジャジーラからは、多くの市民が死んでいるというニュースが流れてきた。米軍が攻撃を開始した4月5日の夜、ファルージャの住宅地に対する米軍武装ヘリコプターの攻撃で、民家の下敷きになって死んだ幼い子供たちの遺体が並ぶ痛ましい映像を流した。「市民32人が死亡した」と報じた。

 私は米占領下でつくられた統治評議会に参加しているスンニ派政治組織のイスラム党と接触し、ファルージャの様子について情報を得ようとした。イスラム党はファルージャに仮設病院を開いて医師を送り、医療支援や食料の搬入などの人道支援をしていた。

 私はイスラム党の人道支援チームと一緒にファルージャに連れて行ってくれるように頼んだ。ファルージャとバグダッドはわずか60キロしか離れていないのに、1カ月の間、米軍の発表とアルジャジーラの現場リポートという間接的な情報で報道するしかなかったからだ。

 米軍の対テロ戦争の現実も、ファルージャの反米攻撃の実態も、現場に行って自分で取材しないと分からないと考えた。米軍と地元代表者たちの間で何度か話し合いがもたれ、やっと4月30日、旧イラク軍の将軍が指揮する部隊が治安に責任を持つという枠組みの下に米軍は市内から撤退を開始し、5月4日に完了した。

 ファルージャで何があったのか、民間人が犠牲になったのは事実なのか、どのような攻撃だったのか、どのような幕引きのメカニズムがあったのか。ファルージャ攻撃の顛末には多くの疑問が残った。

 イスラム党の幹部は私のファルージャ入りについて協力を約束した。4日に党事務局から連絡があり、翌5日朝に党本部からファルージャに向かう車が出るから、同乗を認めるという連絡があった。

 5日朝8時ごろ、イラク人の助手2人と運転手一人を伴って、バグダッドのイスラム党本部に着いた。党本部で2時間待たされた。当初予定していた4輪駆動車が急に使えなくなり、別の車を探しているという。日没までにはファルージャを出て、バグダッドに戻っていなければならない。取材の時間が刻一刻と短くなっていくのが気が気でならない。

 待つこと2時間、やっとファルージャに行くピックアップトラックが調達できた。私と助手の一人はトラックの後部座席に乗り、運転手の隣に銃を持った護衛が乗り込んだ。もう一人の助手は支局の車で続いた。車が動き出して、時計を見たら10時半になろうとしている。

 バグダッドからアンマンに向かう無人の高速道路をトラックは疾走する。走り出せば1時間弱でファルージャに続く一般道路に入った。

 そこで米軍とイラク保安部隊の検問に出会った。町に入る数十台の車が並んでいた。米軍が撤退したというニュースを聞いて、市外に避難していた人々が続々と戻っているのだ。イスラム党の車であるということで簡単なチェックだけで検問を通過できた。

破壊のすさまじさ

 東から町の中心部を目指すが、沿道には戦闘の傷跡は目立たない。米軍の撤退後、治安を引き受けたイラクの部隊が物々しく治安維持にあたっていると想像していたが、町の中心部には人々が通りにあふれていた。人々の表情ははなやいでいるようにさえ見える。

 私を見た人々が「ヤーバーニ(日本人)、ヤーバーニ」と言う声が聞こえる。「ウエルカム・トゥ・ファルージャ(ようこそ、ファルージャへ)」と英語で呼びかけてくる声もある。「状況は平穏に戻った。米軍が撤退したからだ」とイスラム党の運転手が言う。

 イスラム党ファルージャ支部の副支部長に迎えられた。「時間がないので、町を案内して欲しい」と頼むと、副支部長自ら車を運転して、市内の被災箇所を回った。「あのモスクの尖塔の上に米軍の狙撃兵がいた」「このモスクは米軍の空爆を受けた」などと、走りながら説明してくれる。

 市北部で激戦地となったジョラン地区に入った時、破壊のすさまじさに息をのんだ。道の両側に並ぶコンクリートづくりの一戸建てがあちらこちらで踏みつぶされて瓦礫の山になっている。まるで巨人が歩いた跡のようだ。瓦礫の間で後片づけをする人々があちらこちらに見える。1カ月ぶりに戻ってきた人々だ。

 屋根が半分潰れた家の下で39歳のトラック運転手が呆然と立っていた。家族はバグダッドの北にあるサーマッラの親戚の家に身を寄せている。その朝、一人で様子を見に帰ってきたという。

 屋根が潰れていない部屋の中も、すべて焼けて真っ黒だ。「テレビ、冷蔵庫、電熱器、扇風機……すべてだめになった」と語った。学校に通っている3人の子供の教科書も焼失した。庭先にあった車も、崩れた瓦礫で半分潰れていた。空爆は、4月10日の午後3時ごろ始まり、車をおいて、生後5カ月から16歳までの子供6人と夫婦で、着の身着のままで逃げた。

 「上空をヘリコプターが飛び回って、爆弾を落とした。我々はヘリが近づいてくると、地面に伏せて、生きた心地もせず、這うようにして動いた」と語る。

 翌日、家の様子を見に来たところ、道路で米軍に拘束され、10日間、拘束された後、釈放された。「家にいたら、空爆が始まって、逃げまどった。米軍に捕まえられて殴られたが、何も答えることはない。一方的に攻撃しているのは向こうなのだ。私が何をしたというか」と訴えた。

「抵抗勢力」へのインタビュー

 家の中で聞いていると、後ろの方で町の人々から「ムカーワムーン(抵抗勢力)だ」という声が上がった。

 振り向くと、いつの間に入ってきたのか、覆面をしてカラシニコフ銃を持った中肉中背の男が立っていた。イラクではファルージャ包囲攻撃が始まってすぐに、日本人3人がスンニ派武装組織に拘束され、その映像がアルジャジーラに流れて大騒ぎになった。2週間後に解放されたが、その拉致事件のビデオに出てくる武装勢力と同じ格好だ。一瞬、全身の血が凍りついた。

 一緒にいたイラク人助手が、「インタビューに答えると言っている」という。録音用のマイクを向けて、矢継ぎ早に質問した。

 ――いつから米軍と戦っているのか? ファルージャ攻撃の前からか? 包囲攻撃が始まってからか?
 覆面男 私は今回の戦闘が始まってからだ。
 ――4月の初めからか?
 覆面男 我々は米軍が町に入ってくるのを阻止するために戦った。
 ――どのようにして米軍を攻撃するのか?
 覆面男 我々はファルージャの周辺に陣取って、入ろうとする米軍を攻撃した。米軍は我々がザルカウィ・グループだとか、フセイン旧政権の支持者などと言っているが、我々はどちらでもない。我々は我々の土地と我々の名誉を守って勝利したのだ。
 ――あなたは何歳か? 職業はあるのか?
 覆面男 23歳で、失業中だ。時に仕事があれば、労働者として働く。
 ――武装組織として戦っているのか?
 覆面男 そうだ。いまは、誰もがファルージャ防衛のために戦っている。
 ――何という名前の組織か? 何人いるのか?
 覆面男 名前はない。我々は15人のグループだ。 
 ――どのような武器を使っているのか?
 覆面男 カラシニコフ銃と迫撃砲、手投げ弾、RPG-7(携帯型小型ロケット砲)だ。
 ――米軍との停戦についてどう思うか?
 覆面男 我々は停戦を必要としていない。停戦を望んでいるのは米軍だ。米軍は我々の抵抗を崩せなかった。米軍はこれまでも2回停戦を結んでおきながら、2回とも裏切って、攻撃してきた。我々は停戦を信じない。
 ――イラク人の部隊が治安を維持することになったが、イラク部隊を攻撃するのか?
 覆面男 我々は正しいイラク人と戦うつもりはない。

 インタビューをしながら、相手を観察した。覆面の男は23歳だと言ったが、ジーンズにTシャツ姿で、覆面の間から出ている目を見ても、18歳か19歳くらいではないかと考えた。

 男は「勝利」を語ったのが意外だったが、それはただ強がりばかりでもないように思えた。

 米軍はジョラン地区に激しい空爆を集中させた後、地上部隊を入れたが、米軍が入ることができたのは、ジョラン地区のような周辺部だけで、市中心部に入ることはできなかった。副支部長は「地元の武装勢力の抵抗が強かったため」という。武装勢力は、自動小銃や小型ロケット砲で米軍へ激しいゲリラ戦を仕掛け、米軍が市内に入ることを阻止したことになる。

 米軍は激しい空爆を先行させたが、犠牲になったのはほとんど民間人だった。ジョラン地区で、深さ3メートル、直径15メートルほどのクレーターのような巨大な穴も2カ所で見た。米軍が投下した大型爆弾だ。住民たちはクレーターを指さして「これが米軍の大量破壊兵器だ」と訴えた。

 一つのクレーターのわきに家財道具が散乱していた。「8日前、ミサイルが家に撃ち込まれて、2階建ての家をつぶされた」と、無職のハミド・ハマド(34)が語った。

 ハマドは米軍の攻撃が続いた25日間、家から逃げ出して、ナツメヤシを植えた農地で数日過ごした後、市外の親戚の家に身を寄せた。3日前に戻って来たが、その時はまだ、米軍のスナイパーが高い建物の上に陣取り、動くものに発砲していたという。

 家は跡形もなく潰れ、瓦礫が散乱し、近くに大きなクレーターが口を開けている。「家をつぶされ、すべての財産を失った。家具もない、エアコンもない。買っていた羊もみな、消えた。ブッシュはイラクに自由をもたらすと言った。米軍はイラクを解放するために来たと言った。これが、米国の言う解放なのか。家族や子供たちを町から追い出し、戻ったらホームレスになっている」と、ハマドは怒りをぶつけた。

ファルージャで米軍が占拠した民家から見つかった切り裂かれたコーラン=2004年5月、撮影・筆者拡大ファルージャで米軍が占拠した民家から見つかった切り裂かれたコーラン=2004年5月、撮影・筆者
 米軍が占拠していたという家を整理していた男性は、「これを見てくれ」と、本のようなものを持ってきた。「米軍が切り裂いたコーランだ」という。

 確かにそれは、イスラム教の聖典コーランだった。 ・・・ログインして読む
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筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、最新刊に『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)。

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