メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

ベトナム戦争から40年

容易でない公的史観の修正

中野亜里 大東文化大学教授(現代ベトナム政治)

 歴史は時としてメディアによってつくられる――1975年4月30日、サイゴン(現ホーチミン市)にある南ベトナム大統領の官邸に一番乗りした戦車に乗っていた、北ベトナム人民軍のフオン少尉はこう語っている。

 フオン少尉の戦車は、中国から援助されたものだった。しかし、ベトナムの公式報道では旧ソ連製の別の戦車が最初に乗り込んだとされた。

 戦後、ベトナムは中国との関係が悪化、旧ソ連と親密になった。このため、政府が統制するメディアは、報道を訂正し中国製戦車に栄誉を認めることができなかったのだろう。

 戦争の勝者が定着させた公的史観の修正は、容易ではない。ましてベトナムのように冷戦下、南北に分断され、一方が他方を武力制圧し、統一後に共産党の一党体制下に置かれた国家ならなおさらだ。

 「サイゴン解放」の主力となったのは、多様な民族主義勢力からなる南ベトナム解放民族戦線ではなく、解放戦線を装った北ベトナム人民軍だったことは、つとに知られていた。

 解放戦線を中心とする南ベトナム臨時革命政府は、南部を中立化し、北ベトナムとの連邦国家をつくり、平和的に統一を進めるという構想を持っていた。

 しかし、戦争が終わると、臨時革命政府は解体され、ハノイの共産党政府主導で社会主義化が急ピッチで進められた。抗米戦争の勝利は「常に正しい党の指導」でもたらされた、というのが公式な歴史認識だ。この国で、統一の時期や方法が正しかったのか、という議論がなされることはない。

 1991年に旧ソ連が崩壊すると、ベトナム政府は共産主義よりも民族主義を強調するようになった。抗米戦争についても、もっぱら民族解放という文脈で語られている。

 しかし、民族解放のための闘いであったなら、その目標が達成された後に、多様な民族主義勢力を否定し、共産党一党体制を敷いたことの説明が難しくなる。矛盾する部分は黙殺された。

 ベトナム国内では勝者の言説が定着しているため、戦争に関してまだ明らかになっていない事実が多い。米軍に勝ったというが、南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍の損失について、体系的な統計が公表されたことはない。

 かつてのサイゴン政権(旧ベトナム共和国)はアメリカの傀儡(かいらい)として全否定され、南ベトナムの政治や社会についての実証的な研究にはいまだに障害が多い。

国境の村の虐殺はだれの仕業か?

 カンボジアと国境を接するベトナム南西部のアンザン省バーチュック村には、ガラスケースの中におびただしい数の人骨を安置した慰霊堂がある。

村の慰霊堂に安置された人骨=アンザン省、筆者撮影拡大村の慰霊堂に安置された人骨=アンザン省、撮影・筆者
 国境から約7キロの所にあるこの村は、1978年4月18日から30日までカンボジアのポル・ポト派の部隊に占領され、3157名の村人が虐殺されたという。

 この事件は、ベトナム軍によるカンボジア進攻の決定を促す一つの追い風にもなった。

 しかし、バーチュック村の虐殺事件は、ベトナム側の自作自演だったと主張する人々もいる。主として75年のサイゴン陥落後に国外に逃れた旧南ベトナム政権側の人々である。

 当時はこの国境地帯にポル・ポト派の部隊は展開していなかったこと、カンボジア側からの攻撃を何度も経験していた村人がその日に限ってすぐに避難しなかった不自然さ、「ポル・ポト派の兵士」がなぜかベトナム語を話していたという生存者の証言などがその根拠である。

 しかし、最も戦慄(せんりつ)すべき「根拠」は、殺害された人々の多くがホアハオ仏教の信徒だったことだろう。ホアハオ仏教は、1930年代に旧チャウドゥック省(現アンザン省)で生まれた宗教で、教団は独自の政党や武装組織を持ち、共産党と対立した。南北統一直後のハノイ政府から見れば、教団の存在は南部の不安定要因であった。

 旧南ベトナム軍関係者で、海外に在住しているある人物は、自分もホアハオ教徒だったとして、共産主義体制下の宗教弾圧の無慈悲さを訴え続けている。

 この人物のように、1975年以後の政治体制を認めず、共産党政権が続く限り祖国には戻らないという人も少なくない。戦後40年を経ても南北の民族和解が果たされていないのは、公的史観に反することはすべて「歴史の歪曲(わいきょく)」として否定されてしまう体制のせいもある。

 現在のアンザン省では、共産党によって公認されたホアハオ仏教教団が、聖地サム山に広壮な寺院を構え、ホー・チ・ミンの肖像画を掲げて活動している。

 悲劇の記憶の風化は早く、村の慰霊堂では、ベトナム人観光客がにこやかに記念撮影をする光景が見られる。そこで語られる歴史は、やはり公認されたメディアによって作られたストーリーである。

 ガラスケースの中でささやかな「観光資源」になっている犠牲者たちの魂は、歴史が客観的に検証されない限り、聖地サム山に還(かえ)って安息を得ることはできないのではないだろうか。 

本論考はAJWフォーラムより転載しています。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

中野亜里

中野亜里(なかの・あり) 大東文化大学教授(現代ベトナム政治)

大東文化大学国際関係学部教授。慶應義塾大学大学院博士課程満期退学。博士(法学)。著書に『ベトナムの人権――多元的民主化の可能性』(福村出版、2009年)。『現代ベトナムの政治と外交』(暁印書館、2006年)。編著『ベトナム戦争の「戦後」』(めこん、2005年)。