安保法案の議論にみる反知性主義
2015年08月11日
現在、日本では「反知性主義」という言葉を想起させる事例に溢れている。
ただ、この言葉は地域や時代によって形や評価を変えてきており、たとえ反知性主義に合致した事象であっても、そのカテゴリーに入らなかったものも多い。なぜなら、「知性に反対の姿勢を示す」との言葉には、様々な立場が存在するためである。
その例として、知性が織りなす枠組みを十分に意識・咀嚼しながら、現在の知的エリートの理論や思想などを市井の立場から超克することを目指す立場がある(日本でいうならば、吉本隆明などの姿勢がそれに当たる)。
あるいは、ヨーロッパを起源とする神学校に代表される旧来のキリスト教の知の枠組みに対して、「信仰は教育の有無に左右されない」との思いに従い、権威からの超克を意図したアメリカ人聖職者を起源とする立場にも、そうした指摘がなされる。
しかし、現在、日本で問題視されているのは「自らの直観を正当化するために、従来の知の技法や蓄積を無視する姿勢」である。
その対象(日本において一般に反知性主義者とされる人)の言説を見ていると、先に挙げたような「旧来からある知の枠組みを十分に理解した上で、それを超える」という気概はない。単純に現在定着している結論が「気に入らない」ため、それを論破したような形をとり(あるいは結論を「なかったこと」にし)、自らの主張を声高に叫んでいる。
つまり、現在議論がなされているのは「現代日本型反知性主義」といえるが、本稿においてはこれを反知性主義として議論を進めていきたい。
日本の歴史における反知性主義の代表例とされるのは、美濃部達吉の天皇機関説に対する批判であろう。
しかし、1935年2月の貴族院議会において当時、貴族院議員であった美濃部に対し、「天皇機関説は国体に対する緩慢なる謀叛」との非難がなされ、美濃部は適切・丁寧な反論を議場にて行ったものの、「天皇を機関に例える用語自体が不敬である」とした主張が世間を席巻し、メディアも巻き込んだネガティブキャンペーンの中で、憲法学の権威でもあった彼は起訴され(後に起訴猶予)、著作は発禁となり、議員を辞職するに至った。
そして、以後、日本では学問自体が当局や世論の規制を受けるようになり、国家法人の中の機関の一つであった政党政治(議会政治)も有名無実化していく。
ただ、当時美濃部を批判した者がしばしば自ら述べているように、実際に彼の著作はほとんど読まれることはなく、用語の一部を恣意的に切り取られたことで、美濃部の学問上の成果は熱狂の中で葬り去られることとなったのである。
こうした動向は戦後、日本において反省の対象となり、学問の独立や尊重は国の基本原則として国民の間で共有されてきた。
つまり、戦時に代表されるような単純化や無理解の中で、これまでの学問的蓄積を無視したり、意図的に政治抗争の具とすることは結果的に国民自らの首を絞める結果となるとの認識が定着していったといえる。
また、そうした戦後日本の姿勢は第二次世界大戦の惨禍によって生まれた各国の疑念を解かせ、日本への信頼を高めてもきた。
しかし、21世紀に入ると、そうした状況に変化が生まれる。
戦後の東アジアに対する、いわゆる「謝罪疲れ」や、絶えず存在してきた在日コリアンや韓国への蔑視を引き金として、インターネットや右派論壇を中心に、戦前日本の植民地支配や従軍慰安婦の肯定、あるいは在日コリアンは“特権を有している”といった言説が語られるようになった。
それらに対する個別の議論は他に譲るが、国内外の学術の世界では既に評価が定まった事象であり、国際的な場であれば、まともに相手にもされないレベルの主張がネット上の大部分を覆っている。
ただ、そうした立場をとる者の多くは、形の上では学術的な衣を纏(まと)おうとする。
最も多くなされるのが
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