日本の大学が抱える課題と可能性
2015年08月17日
日本の現状を見ると、ネット社会の言説では「知の技法」の理解が進まず、政治の面では「知の蓄積への尊重」が足りないとの問題が見て取れる。そうした状況を生んだ背景として、筆者は現在の日本の大学教育に大きな課題があると考えている。
日本の大学においては、高校時代に記憶力(暗記)を重視した繰り返しの学習を重視する。もちろん、一定量の知識を得るためには詰め込みは必要であるし、韓国においてもそれは同様である。
入学後すぐに行われる当該講義においては、ベテラン教員による授業や質の高いテキストが使われるものの、それまで考えて判断する勉強を十分に経てこなかった学生にすれば、認識のギャップは大きい。
それは、初心者がその道を究めた達人の金言を聞いても、真意はだいぶん後にならないと分からない状況に似ている。
本来であれば、一定程度、大学の講義内容を理解できるようになった時点で再度方法を学ぶことで、運用がしやすくなるのであるが、そうした機会は余り設けられていない。
そうして4年間が過ぎ、規定の単位を取り終えると、大学生の大半は社会に出て、大学院生はそうした技法を改めて本格的に学ぶ。ただ、大学院生の技法習得方法も体系的というよりは、断片的に教員からの指導の中で身に付けていく場合がほとんどである。
自省を込めて言うならば、日本の大学を卒業した筆者自身、「どのように資料を取捨選択し」「従来の研究の蓄積を整理し」「論理を組み立てるための文章構成を学ぶ」といった技法を身に付けたのは大学院に入ってからのことであった。
もちろん、この方法が全て間違っているとはいえない。筆者自身もその中で育ってきたのであるし、日本の学術の世界はそれがベースになり、高いレベルの結果を出してきているためである。
ただし、ここで検討しなければならないのは、従来型の「大学=会社員・官僚の育成機関」「大学院=研究者の育成機関」といった仕分けに基づく講義の構成が現代社会に合致しているのか、という点である。
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