求められる知の蓄積
2015年08月20日
ここまでの議論で見えてくる日本の大学の課題としては、「知識量は与えるものの、それをどのように運用するかは十分に教えられていないということ」、ならびに「学問の位置づけが大卒レベルの高等教育を受けても十分には身に付かないということ」の2点である。
確かに、高度経済成長期までのように大学進学者が限られ、一般市民には自らの意見を発信する機会がない状況であれば、大学において社会に出た際に有用な知識を教え、研究者として大学院に進もうとする人にのみ学問の道筋を示すことは有効であったかもしれない。
しかし、現在、大学進学は珍しくなくなり(2014年4月の全国平均で高卒者の過半数以上、東京都に限れば7割以上が大学に進学している)、誰しもがブログやfacebook、Twitterなどの土俵において学者と同様の発信が可能となっている。
加えて、そうしたツールを通じて物事を知ろうと考える人が増加している環境がある場合、そこに歪(ひずみ)が生じる。過去の蓄積を無視し、珍しい資料を強調するといった手法を書き手がとったとしても、「それがなぜ間違えているのか」あるいは「なぜ適切ではないのか」を多くの閲覧者が判別できないという構造が生まれてしまうのである。
また、高度経済成長期以降の大学進学が珍しくなくなった時期に教育を受けた現在の政治家の主流を占める人からすれば、厳格な指導を大学教員から受けず、なぜ大学で学問を学ぶのか(学歴取得以上の価値があるのか)を十分に知り得ず卒業を迎えてしまったことは想像に難くない。
加えて、彼らを選ぶ市民の多くもそうした経験を教育機関において経ていない。以前であれば、大学に進学することや大学で教えることの敷居の高さが権威を形作ってもいたが、大学進学が一般的になり、そこで深淵とまでいかなくとも、「学問とは何か」という点に十分に向き合わない人が増えていく中で、それらを軽視する傾向が生まれてしまうのは無理のないところである。
もちろん、ここで言いたいのは、大学が権威を伴っていた時代に戻るということではなく、大学が現代社会の要請にいかに応えるかということである。
近年、大学においては実学志向が強まり、教養科目の縮小などが進められているが、学問が身近になった今だからこそ、学びの目的や手法を広く身に付けるために、力を尽くす必要があるのではないだろうか。
筆者は職業柄、大学生と接することが多く、大学入学直後の学生に対して社会事情、資料に関する基礎知識等の説明をすることがある。
その際に、いかに資料を扱うのかを解説するために新聞を用いると、彼らの
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