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[4]人生は、キューバ国家の変化とともに

板垣真理子 写真家

 今回は、一人の男性を通してキューバの辿って来た道を顧みてみたい。

 どこの国の人も、その国の社会と無関係に生きることはできないが、キューバほどに国の変化とともに生きている、もしくは生きざるを得ないところも少ないのではないか、といつも思う。彼の語る、彼の人生もまたしかり。

堂々たる風格のハバナ大学拡大堂々たる風格のハバナ大学=撮影・筆者
 そして、この国に生きる人ほど、それぞれの立場と歴史が微妙に異なり複雑なこともそうそうないのでは、とまた思う。一人一人に、あなたの人生は? と訊いてみないことには、わからない、計り知れないものが多すぎる、といつも感じる。

 ある日の午後、行きつけの中華屋さんの扉を出たところで、後ろから「こんにちは」と日本語の挨拶が聞こえてきた。

 この程度の日本語なら知っている人もそこそこ、いる。また、片言の日本語をしゃべって近寄ってくる人にはなにか魂胆があったりして、あまりお付き合いしたくない人物に出会うこともある。一瞬、用心したが、続く日本語があまりにも流暢だったので、耳を傾けてみることにした。

 「僕はドイツ語の通訳を目指していて、今ドイツ語ばかり勉強しているから、久しぶりに日本語が話したくなって」とのこと。母国語であるスペイン語と、日本語、ドイツ語に、後でわかったけれど、英語もある程度、できる。

 これほど語学に長けた彼も、実はこの日、私に話しかけた理由は上記のものだけではなく、この界隈のほど近くにある「カジェホン・デ・ハメル」という、ちょっとしたルンバの観光地のようなところに誘うつもりだったらしい。ここに外国人観光客を連れて行けば、なにがしかの収入になる。

猫も無事生きている拡大猫も無事生きている=撮影・筆者
 「仕事は?」「時々ガイドの仕事が入る程度で」

 とのこと。なにかが「できて」も、それを充分に発揮できる場が少ない、というのも今のこの国の内部にある悩みの一つ。

 私がハバナ在住で、「カジェホン~」のこともよく知っていて、特に行く必要もないとわかると、ただ単に日本語が話したいから、という展開になった。

 ありがたい。私はといえば、キューバのいろいろな人に話が訊いてみたいのだけど、通訳の人材に苦労していて、こうして自らが英語と日本語で話してくれる人など、まさに「渡りに船」だった。

 しかも、ある程度の年齢、つまり、ある程度の期間この国の歴史と付き合ってきた人である。

 この日の午後の数時間、彼は自らの生い立ち、兵役体験、社会奉仕の仕組み、国を出て行く隣人についての過去の事情、そしてキューバがもっとも大変だった、いわゆる「スペシャル・ピリオド」と言われる時代について語ってくれた。

軍隊が蚊の駆除も

 たいてい、自ら近寄ってくるキューバの人は、多くの場合、外国人からはなにがしか「出してもらえる」という期待を持っている場合が多いのだけど、彼は自分から「Moneda National=モネダ・ナショナルで食べられる店があるからそこへ行こう」と言う。

 モネダとはこちらの現地の人用の通貨で、外国人が使うCUC(こちらではセウセと呼ばれることのほうが多い。案内書などには、クックとも表示されているが)。現在、モネダとセウセは、1対25である。とはいえ、そのままモネダ払いが得か、といえば、そうでもなく、結局、上記のレートで換算しただけの場合も多いので、それほどの得にもならない時と、モネダ払いできるもののほうがずっと得な場合とがある。

93歳だという。いろいろ乗り越えてきても、この笑顔、がキューバの強みだった拡大93歳だという。いろいろ乗り越えてきても、この笑顔、がキューバの強みだった=撮影・筆者
 この時も訊いてみれば、私の知っているCUC払いの店とたいして違いがないことがわかったので、私の知っている店に行くことにした。ちゃんとクーラーも効いていて、安心して坐っていられるからだ。

 まず彼は、1977年生まれの37歳。いろいろな意味でぜひ話を聞いてみたい年齢である。グランマ州のヒバコアという所で生まれた。この地名は、先住の人たちの言葉から来ていて、「水がたっぷりある」という意味だという。

 4歳の時に、お母さんの希望でハバナに引っ越してきた。これもまた、とてもキューバらしい。ハバナのかなりの人たちは、地方の出身である。「東京もそうなんでしょ?」と彼は聞く。まさに、そのとおり。各国の首都が持つ特徴が、ここにも生きている。

 レーニン高校で3年間勉強してから、ハバナ大学に進み、経済学を5年間学んだ。その後「ソーシャル・サービス」も行っている。ソーシャル・サービスとは、そのまま社会奉仕活動だが、実際は農業もあれば、テレビの部品工場や、ホテル向けの洗剤工場でも働いたりする。通常どおり兵役にもついている。

 「兵役ですることは、身体を鍛えることもあるし。たとえば空手や柔術など。仕事としては、たいてい最初は武器を守る仕事につくが、草刈りなどの仕事もある。僕はやらなかったけど、フミガシオンの仕事も、軍隊の者がやっているんだ」

 フミガシオンとは、蚊の駆除のこと。

 私はずっと「カサ」に住んでいるためか、これを目の当たりにしたことはないが、各家庭を廻って、もうもうと煙の出る駆除をするのだという。

 後で聞いたら、これは「お断り」もできるのだそうだ。私の住んでいる「カサ」は、お断りしているのだろうか、不明である。

=撮影・筆者拡大早朝、フミガシオン中の飛行機。下町の「カルメン教会」のすぐ横を飛び去る=撮影・筆者
 空中散布もある、と聞いていたが、まさにこの原稿がアップされる日に初めて目の当たりにした。

 いかにも使いこんだ風情の複葉機が、何度も空を旋回し、「あれが、フミガシオンの空中散布版」と説明されてわかった。

 こうして蚊の駆除をするのは、「デング熱」があるため。蚊さえいなければデングにかかる危険もないのだし。

「もっとも素晴らしい時」

 「軍隊はキツかった。身体を使うこともそうだし、なにしろ食べるものが、水と砂糖とパンだけ。それであの肉体労働をしたら……皆、すごく痩せていた」

 計算してみれば、彼の軍隊体験は、1995年、いわゆる「スペシャル・ピリオドのピークと言われている1994年前後にあたる。この話については、詳しくは後に回そう(補足:私が兵役中に訓練している人たちを垣間見たことのある2013年でも、兵役の人たちはものすごく細かった。その頃でも今でも一般の人たちにかなり肥満体が多いのと対照的)。

 「それでも僕は1年後に別の部署に移される。というのも、優秀な人材が欲しい、ということで抜擢されたんだ。そのこと自体はありがたいことなんだけど、仕事はもの凄く大変でね。なにをやったかというと、レーダー・スクリーンを見ながら、敵機が来た時に備えることをするんだ。実際に撃ち落とすんじゃなくて、どこにいるか見る、という仕事なんだけと、すごく厳しい訓練と仕事だった」

 やはり、この人は言語能力だけではなく、なかなかに優秀な人なのだ。そういう成果もあるのか、時代は少し現代に近くなるが、2007年に国際交流基金の援助を受けて日本に2週間来ている。

 「僕はそういう正規の形で海外へ行ったけど、僕の周囲ではいわゆる自力で=ビザなしで海外に出た人たちもいる」

 1959年の革命成立以来、「キューバの人たちが海外へ出る」というのは、とても難しい歴史である。出ることが難しいのもあれば、理解するのも難しい。それぞれの時代で規則はずいぶんと変化しているからだ。米国との国交が正式に成立した後は、どのように変化していくのだろうか(すでにキューバ、米国の双方に大使館が開設されている)。

 まず、革命成立直後。「出たい人は出ても良い」というフィデル・カストロのスピーチをドキュメント映画で見たことがある。かなり衝撃的な内容だが、ここでは長くなりすぎるのではしょろう。その後、ある程度の安定した時代。

 彼、曰く「1980年代はもっとも素晴らしい時だった」。あくまで、彼の個人的な感想として受け取っておく。

 としても、革命成立から20年、やっと社会の形もでき、安定した時代でもあったのか。1980年から1989年とすれば、彼は、3歳から12歳である。夢見るような表情で言ったのが印象的だった。

 しかし、この時期には海外の人はあまりキューバに入国できていない。ソ連とその衛星国の人のみ多く、入れたのだと言う。

 また、もしそれに先立つ60年代から70年代を「素晴らしい年月」と感じている人がいたとしても、彼が生まれる前にあたり、体験できてはいない。実際に革命を起こし、その理想の実現に燃えた時代を「なんてすばらしい時だったのかしら」と表現した人の言葉を書物で目にしたこともある。

有機農業の推進

 そしてやってきた、1989年。実際にソ連が崩壊したのは、1991年だが、89年あたりから、キューバに対する貿易が冷え込み始め、キューバの社会は打撃を受けていく。

 さらに1991年、まさに轟音とともにくずおれた大国の影響を強く受けたキューバは大変な時代に突入する。まず、もっとも困窮した切実なことは食糧不足だった。

マレコン通り。人々は海の向こうにどう想いをはせたのか拡大マレコン通り。人々は海の向こうにどう想いをはせたのか=撮影・筆者
 キューバは、農業といえば砂糖黍(きび)とタバコの単一農業に近く、食糧の自給はできていなかった。

 この困窮状態から抜け出た道の一つとして、都市を中心とした「有機農業の推進と、国営一点ばりから少しずつ一般化が可能になった変化」があげられる。

 それには数年間を要したし、いきなり効果がでたわけではなかったが、乗り越えた道の一つであったことは確かだった。詳しくはいずれ機会があれば書きたいと思う(拙書『キューバへ行きたい』にもこの歴史と有機農業についてある程度詳しく触れている)。

 さて、その数年~10年近く(私が初めてこの国を訪れたのは、1998年)この国がどんなふうだったかは、つぶさに見ていない限り、わからない。

 ただ、彼を始め、いろいろな人が語ってくれたことによれば、地方の農村部は人口も少ないし、野菜などは一応あったし、不自由はしても、むちゃくちゃな食糧不足ではなかったという。

 ただし、石油がないために停電し、電気がないために多くの不自由をしたことは、地方でも同様のことだったらしい。「電気がないと扇風機も回せないし、蚊に刺されてねぇ」とは、当時、地方で暮らしていた人の言葉。

 食糧に関しては地方から都市に運ぶ手段=車=ガソリンがないため、やはり、ハバナを中心とした都市がもっとも大きな打撃を受けていた。そのため、有機農業推進も「都市部を中心に始まった」。

 「そのあたりのメルカード=市場が、全部閉まっている、と思えばいいのよ」とは、ずっとハバナ在住の50歳代の女性の言葉。「買おうにも、なんにもないのだもの」。農村部から都市へ運ぶことができなかったのだから。

 ふたたび、この男性の語ってくれた言葉に戻ろう。「この頃は、ちょっとしたジョークがあってね。『Los 3 Mosqueteros(3人のマスケット銃兵隊)』という映画があったんだけど、3人の兵士が闘って敵を倒すというコミカルなものでヒットしていた。これを、三つの食糧に当てはめて笑っていたんだ。米と、卵と、ひよこ豆。ひよこ豆は、ロシアが送ってくれていた」

 なるほど、この話にいくつかの納得できる事実がある。

 大変な時代を乗り切るのに、「笑い」が手伝っていたこと。キューバの人は、ジョークが大好きで、いつもなにか面白いことを探して笑っているけど、この時にもそれはあてはまっていたのだろう。

 そして、普段は特別なにも言わないけど、なにかのはずみでロシアについての親近感を示す人が今でもとても多いこと。

モップやコンドームを食べた!?

 もう少し、食糧事情について聞いたことを記しておこう。

 旧市街には、サンフランシスコ広場がある。観光で訪れた人はたいていここを通る。旧い教会もある、情緒豊かな広場だ。

 「この広場は、別名、鳩広場とも呼ばれていてね」

 確かにいっぱい鳩がいる。

 「皆、この鳩を、よく食べたんだ。あの頃、鳩が減っちゃった」

 よく聞く話に、変わったものまで食べた、というものがある。

 衝撃的なのは、モップ。

 「モップを水に浸して2~3日置くとやわらかくなるから、それにタマネギを刻んで入れて焼くとステーキみたいに食べられたんだ」

 「それと、ひそひそ話になるけど、コンドームも食べたよ。コンドームは外国から送られてきたのであったんだ。ピザの上に乗せるチーズがないからコンドームを刻んで載せて、焼いて食べるとチーズみたいになったんだ」

 「そんなもの食べて大丈夫だったの?」

 「後でお腹が痛くなったね」

 よく聞く話で「猫も食べたから、猫が減った」というのもある。

 「犬は食べないの?」

 「犬は食べない、猫のほうが美味しいとも聞いたしね」

 深く考えると、いろいろと釈然としないことも多いけど、「大変だったんだ」という例として聞かせていただいた。釈然としない部分については、私の想像になってしまうので省略する。

ボートでアメリカに渡る人たち

 「この時代、僕の隣人たちもたくさん出て行こうとした。ビザは簡単ではなかったし、ビザなしで出て行こうとすれば、ボートに乗るしかない。ボートはこんなふうだった」(と書いてくれた)

 発砲スチロールの板の周りにタイヤを付けたもの、それにエンジンを取り付ける。また、タイヤの形そのままのものもあった。

 「ものすごくたくさんの人が出たのは、1994年から。というのも米国が法律を変えて、ビザなしのキューバの人を受けいれたから」

 つまりたくさんの人が出れば、国が弱体化するから。目と鼻の先にいる、目障りな社会主義国をつぶすことができるのではないか、と考えた結果である。

 「一番、ボートで渡る人が多かったのは、1998年だったよ」

 衝撃だった……というのも、上記したとおり、私が最初にこの国を訪れたのが、まさに1998年だったのだから。

 正直言って、キューバは憧れの国だった。特に社会主義がどうの……ではなくても、素晴らしい音楽と、それを演奏しに来てくれた人たちのなんともいえない爽やかさ、実直な感じの良さ、微笑み。そして、人づてに聞くこの国の魅力(ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを聞いたは、この数年後。そして私はそれにおおいに救われることになるし、彼ら全員のプロフィールを聞き、一緒に旅をする、という幸運にも恵まれる。再び、拙書になるが、『キューバ、愛!――ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブと音楽揺籃の地への旅』に詳しい)。

 また、気安く知らない人とも微笑を交わし、とにかく自分たちの国を築くために理想をもった人たち……。

 しかし……本音を言うと、1998年の初の体験は、なぜかとても不安定で掴みどころのない、なにか人を戸惑わせるものがあったのだった。「これはいったい、何?」と思いつつ、3週間の短い体験を終えたのだけど。

 あの頃は、今、ここに書き連ねてきたようなことを語る人は誰もいなかった。今、考えると、皆が口を閉じていたとしたら、凄いものがある。

 そして、私が特に取材をするわけでもなんでもなくて、この国を初めて訪れて、ぼぉっと眺めていたあの年が「もっとも海を渡った人の多かった年だった」なんて。心底、驚いた。その頃は、「もうかなりよくなった」というように聞かされていた頃だったから。

 確かに食糧事情や、その他の「モノ」に関してはそうだったのだろう。この頃の体験については、別の回に書く「シャンプー事件」など読んでいただければ、と思う。

 「僕の周辺でも、友人たちが出ていったよ。彼らを送るためのパーティに出たこともある。皆、ビールを飲んで幸せそうだった」

 「あなたは出ようとは思わなかったの?」

 「少しは考えたけど、でも正直言って、恐かった。それに、これは後で聞いたことだけど、米国に渡ってもすぐにはいい生活ができるわけではない。仕事につくにも、ずっと順番待ちで、以前に出た人たちが未だに待っていて、そんなに簡単にはいかない、というのもわかってきたしね」

 「それと、今の時代につながる事として、実はこの頃に貧富の差が生まれたんだ」

 1990年代には、1CUCが120~140CUP(現地通貨の別表現、彼がこのままに表現したので)になっていたことがあった(ちなみに現在は1CUCが24~25モネダ・ナショナル=CUP)。「これを利用してものすごく稼いだ人もいた。僕の友人もね」。

 また、この時の彼の話にはあまり出なかったが、モノ(医薬品など)の横流しなどで稼いだ人もあった、とはほぼ常識に近いこととして語られる。

 最初に聞いた時にはかなりな衝撃だったが、これも、「生きるためには仕方ない」という本音を実現させたものとして、あまり罪悪感をもって語られない。

 ただ、こういうことを上手くやった人と、やらなかった人、できなかった人とでは、大きく差が生まれた。

今でもある配給と、配給手帳拡大今でもある配給と、配給手帳=撮影・筆者
 正直に言って、1998年当時と今とでは、この差は拡大している、と単なる直感でしかないが、感じる。今は「持っている人」はかなり持っている。

 ひとつ、当時のことで付け加えると、1994年に「ドル解禁」になっていた。それ以前はドルを持っていると罰せられた。それが突然変わって、解禁。

 なにもかもが1ドルだったため、私もキューバへ旅する時、片方の掌を広げた厚さよりももっとたくさんの1ドル紙幣をもっていった記憶がある。大きな紙幣をだしてもお釣りをもらえないからだった。なにもかも1ドル。タクシーも、なにか小さなものを買うのも。

 キューバの人も、生活必需品や電気製品などが欲しければドルでしか買えないものも多くあったので、それまでかなりハイ・レベルな仕事をしていた人もホテルの車の窓拭きなどして、ドルを稼いでいた。そうではないと、ドルが手に入らなかったからだ。当時の社会問題として語られていることもあった。その後、ドルはまた使えなくなり、今はキューバの前記した通貨が使われている。

「教育と医療の無料」のありがたみ

 最近、キューバを訪れるたびに感じていたことの一つ。「もうこの国をキューバだから」とみることはやめようと。

 確かに、50数年前とその前後に成し遂げられた国の変革は、他に例を見ない偉業だったと、尊敬の念をぬぐえない。その後に訪れた変化を私は特に「社会主義の」という冠をつけて言いたいとも思わない。つまり「社会主義の失敗」と言いたがる人たちのように。

 少なくとも現在、キューバでは「教育と医療の無料」は続いているし、これはやはり凄いことだと、ここに住んでいて実感する。

 私たち外国人は、大学に行くのにキューバの大学にお金を支払っている。でも、キューバの人は「秋からは、映像のクラスに入ろうと思っているの。とっても楽しみ」と軽く言われると「はぁ~、そうですかぁ」と思う。彼ら、彼女らはなにも支払う必要がないのだ。

 病院へ行けば、私たちはかなり高い金額の支払いもする。これは、外国人はそういう病院に行かないとならないからだ。こちらの人は、無料で診察を受けられる(ただし、不足する薬などに関してはなんらかの支払いが発生する場合もあると聞く)。

 それでもこの2本柱は、キューバが失ってほしくない、重要なものである。この二つが、この国を「良くしている」のは間違いないからだ。ただし、このシステムの始まりは「社会主義」が支えたかもしれないが、現在、どこかで実現しようとすれば、それはイデオロギーとは無関係にでも成立し得ることでもあるのではないだろうか。

 また、この素晴らしいシステムは、生まれながらにそうであるキューバの人たちにとっては、あまりにも当たり前で「そのありがたみ」をあまり感じていない、忘れてしまっている、とも指摘される。

 50数年前の偉業について、そして、教育と医療の無料の凄さについて、彼に聞いてみた。「凄いことだと思わない?」

 返事まで数秒が過ぎた。

 しぶしぶ、というように「そうだねぇ……しかし」。

「社会主義の素晴らしさって何?」

 私が彼に会ったのは、ハバナに居を定めて2カ月目くらいだっただろうか。

 「しかし」に続く言葉は簡単には表現できるものではない。この後、この街に住みつつ、私の意識や感覚がどんどん変化していってしまうのは、なんともやみがたいことなのでもあった。

 優秀で、言葉にも堪能な彼に率直な質問をぶつけてみた。

 「今、キューバで実現できる社会主義の素晴らしさって何?」

 彼は「難しい質問だ」と言いながら、いつまでも考え込んでいた。

 これは私と彼の間の宿題になり、そして、その後会う約束をしていた日に、恐ろしい豪雨と雷に見舞われ、会うことができなかった。

 今でもその質問は私の中に響いていて、簡単に答えを見つけることはできていない。キューバの国、そのものがその回答を見せてくれる日は来るだろうか。米国との国交回復により、これらの「課題」は、キューバの中で、どのような変化を見せるのだろうか。 (つづく)


筆者

板垣真理子

板垣真理子(いたがき・まりこ) 写真家

1982年、ジャズ・ミュージシャンの撮影から写真の世界に入る。以後、ナイジェリアをはじめとしたアフリカ、南米、カリブ、アジアなどを取材。著書に、『キューバへ行きたい』(新潮社)、『ブラジル紀行――バイーア・踊る神々のカーニバル』(ブルース・インターアクションズ)、『武器なき祈り――フェラ・クティ、アフロ・ビートという名の闘い』(三五館)など多数。