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[4]保守主義から重臣リベラリズムへ

五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)

 大正末期以降、〈中略〉マルクス主義の政治的立場からは、保守はせいぜい反動に水を割った観念としての消極的位置づけにとどまるので、———ますます保守反動という一括した使い方と考え方が定着した。(丸山眞男「反動の概念」『岩波講座 現代思想 第5巻』岩波書店 1957年、10頁)

 保守思想はまだ議会すらなかった明治期日本において、比較的早い時期に官製の国家思想として採用されることとなった。

 政治学者の中野晃一は保守主義の源泉として『戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡』(岩波書店、2013年)や『右傾化する日本政治』(岩波新書、2015年)のなかで、明治新政府以降の官僚や政治家による上からの官製国家思想の系譜を挙げている。

封建制から郡県制へ

 たしかに長年続いた武家の世という封建制から、維新後の廃藩置県による郡県制の導入というドラスティックな改革のなかで、明治新政府は制度として立憲主義を採用した。封建制から郡県制への変革は二重の意味合いを持つ。

 ひとつには文字通り西欧近代がたどった分権的秩序であった封建制からの脱却たる中央集権化としての郡県制である。他方で、これは近世までの日本の支配階級が親しんできた歴史観、すなわち中華秩序において封建制における世襲支配の引きはがしによる王権の強化をねらいとした、秦の始皇帝による郡県制への発展というリニアな歴史観とも、廃藩置県は平仄が合うのだ。

 だが、多くの人びとの間で江戸から明治への変革は、図式通りにすすんだわけではない。

 社会学者の内田隆三が説くように、明治政府は前近代的な習俗の同一性と、西欧近代的な国家の同一性を「強権的に同致させようとしたが、両者の間には葛藤がひそんでいる」(内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書、2005年、204頁)ことも忘れてはならないだろう。

 その一因として内田は「習俗の世界からそのまま内発的に天皇制が出てくるのではないから」であり、黒船の来航と開国という「国外からの大きな力への対応を通じて、近代天皇制という抽象的な同一性の立場が成立している」と説いている。

 これまでの前近代的な習俗の存在と、近代的な国家の規範のもとに国民を統合する原理との間の葛藤を解消していくための擬制として、保守主義が国家思想に採用されたと考えることもできるだろう。

文化面での下からの保守主義

 さらにこの保守主義の機運は、にわかに当時流行した政治小説でも紹介されることで、しだいに習俗の次元にも浸透していった。

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