縦軸に日本の歴史を、横軸に外国での民主化・抗議運動を置いた座標軸モデルで考える
2015年12月29日
2015年夏、国会前に最大で12万人(主催者側発表)という人波が押し寄せ、安全保障関連法案に抗議の声をあげた。街頭行動という点では、1960年の日米安保条約改定への反対、60年代後半の学生運動以来の規模だ。日本では、実に半世紀近くの空白を経て噴出した民意の「うねり」のように見える。
しかし多くの点で、今回の抵抗運動は、過去の運動とは異なる。最も際立った違いは、革新野党や組合による大衆の「動員」ではなく、あくまで個人を基調とした幅広い層による「自発的参加」であった点だ。
では、なぜ、このような街頭行動が、生まれたのだろうか。この民意の「うねり」は、SNSを使う「フラッシュ・モブ」のようにはかなく、一過性に終わるのか。それとも、戦後70年で培った日本の民主主義に新たな一章を加える前触れなのだろうか。
以下の文章では、こうした疑問点について、私なりに考えたことを書いていきたい。試みに、縦軸に日本の歴史を、横軸に同時並行で現れた外国での民主化・抗議運動を置いた座標系のモデルを考え、その順に沿って、論議を進めてみたいと思う。
今回の一連の動きの中で、大きな転換点になったのは、6月4日に開かれた衆院憲法審査会で、参考人として陳述した憲法学者3人全員が、「安全保障関連法案は違憲」と明言したことだった。とりわけ自民推薦の長谷部恭男・早大教授が、従来の政府見解を読み替えた昨年の閣議決定を、「立憲主義にもとる」と批判したことは、与党に衝撃を与えた。
これをきっかけに、全国の憲法学者や研究者、元最高裁長官らが声をあげ、議論の焦点は、法案の文言や具体的な想定事態を超えて、「立憲主義」や「法的安定性」といった民主主義の根幹にかかわる問題に絞られていく。憲法9条をめぐる護憲や改憲、安全保障における立場の違いを超えて、「閣議決定による実質改憲を許していいのか」という分断線が浮上したと言ってよいだろう。
学生団体「SEALDs(シールズ)」が毎週金曜日の抗議行動を始めたのは、6月5日、つまり長谷部教授らの陳述の翌日だった。時機は偶然にせよ、その後シールズの抗議が共感を呼んだ背景に、「立憲主義」や「民主主義」をめぐる危機感が、社会に色濃く醸成されていたことは否定できないように思える。
この点について、議論の口火を切った長谷部教授は、法案成立後の9月27日付の朝日新聞紙上で、杉田敦・法政大教授と、次のように印象的な対談をしている。少し長くなるが、核心部分を引用したい。
長谷部 そして予想以上に、日本には立憲主義者がいた。抗議デモに参加した人たちだけでなく、自民党支持者や、法制が必要だという人たちにも、憲法の重要性や、権力を縛る立憲主義の意義についての認識が広がった。安倍政権の「教育効果」は大きかったと言えます。
杉田 非立憲主義者は政策的に必要だと政治が判断すれば、法や慣例を破っても構わないとする。それも一つの立場だが、「あなたは非立憲主義だ」と自覚を促す必要があります。「右⁄左」「保守⁄革新」というものさしでははかれなかった関係が、「立憲⁄非立憲」ですっきり整理される。日本政治の見通しがすいぶん良くなります。
(考論 長谷部×杉田)安保法成立、民主主義の行方は(朝日新聞デジタル)
この対談で重要なところは、自民党かどうか、法制に賛成か反対かという区別を越えた価値軸が登場し、「右⁄左」「保守⁄革新」という従来の対立項では測れなかったモノサシが生まれた、という認識だろう。
近代立憲主義は、憲法を基底に置いて統治を縛るという法秩序の概念である。ではこれを、主権を担う国民の側から見たとき、どのような政治理念がふさわしいのだろう。
私はそれを、「リベラリズム」と呼びたいと思う。つまり今回の民意の「うねり」を、「21世紀型リベラリズム」の覚醒ととらえたいのである。
こう書けば、「リベラリズムは革新、あるいは左派の代名詞ではないのか」という反論が予想される。しかし、それは、保革の対立が長く続いた戦後日本社会に特有の使い方であり、本来の意味とは違う。
「リベラリズム(自由主義)」の対語は「保守」でも「右派」でもなく、統治における「全体主義」、態度における「権威主義」を指す。「革新」と重なり合う部分もあるが、「保守」と結びついて「保守リベラル」という立場も当然ありえる(ちなみに。外国で自由主義が保守に分類されることは稀(まれ)ではない。篠原一、永井陽之助編「現代政治学入門(有斐閣)で引用されたH・J・アイゼンクのモデルで、自由主義は「柔和な心性をもった保守」と区分される)。
注意すべきなのは、この場合、対語となる「全体主義」や「権威主義」が、ナチズムやファシズムだけでなく、共産主義や社会主義の専制体制をも含む、という点だ。つまりリベラリズムは、保革や左右の対立軸を問わず、「全体主義」や「権威主義」に向かうあらゆる勢力に抵抗する、という原則である。
その理由は、リベラリズムが本来、「個人の尊厳」と、「自己決定権」を価値観の基軸に据えているからだ。「個人の尊厳」は、国家や社会による有形無形の圧力や干渉からの自由を意味している。「自己決定権」は、行為の結果責任を個人に帰す「自己責任論」とは違い、外部の力や社会の同調圧力をはね付け、自らの意思でものごとを判断する「独立自尊」を意味している。
ではこの国の歴史に、リベラリズムの伝統はあったのだろうか。
日本のリベラリズムの始祖が福沢諭吉であることは、衆目が一致するところだろう。
たとえば田中浩氏は「日本リベラリズムの系譜」(朝日選書)で、明治期の福沢を始祖とし、大正期のジャーナリスト・作家である長谷川如是閑が受け継ぎ発展させ、昭和期の政治学者丸山真男がこれを再建して戦後民主主義の礎石に据えた、という見方をとる。
丸山が幼少期から、父・幹治の盟友だった如是閑の影響を受け、戦時期には「敵思想」として排斥された「自由主義」の体現者・福沢の研究を通して戦後思想の出発点を準備したことを思えば、この系譜には説得力がある。
この場合に用いる「リベラリズム」の定義について田中氏は、「権力からの自由」を意味する自由権、「権力への参加」を意味する参政権、弱者救済を「権力に要求」する社会権へと発展した三種の人権の集積ととらえ、1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」こそ、「リベラリズムを最も適切に表明した文書」だという。
田中氏の定義によれば、「リベラリズム」は、ホッブス、ロック、ベンサム・ミルに連なる人間の自由・平等・平和思想を統合する民主主義の中核思想であり、近代の世界の歩みを刻印する第2次大戦終結時の到達点であり、精神的な遺産ということになる。
しかし、日本においては戦前も戦後も、「自由主義」は人気が振るわなかった。
戦前・戦時においては、共産主義や社会主義、無政府主義に次いで弾圧された。ところがマルクス主義が「革新」の中核思想として登場した戦後において、今度は「ブルジョア思想」や「反共主義」の代名詞とされて忌避された。
田中氏が、日本のリベラリズムの研究に取り組んだのは、一方では国家主義や軍国主義、他方では社会主義に対する研究が多数ありながら、近代日本を貫流して自由主義や民主主義の系譜を明らかにした作業が「ほとんど無いに等しかった」からだという。
つまり、戦後民主主義が「押し付け」であるという右派、「虚妄」とする左派の保革対立の狭間に置かれ、そもそも近代日本の自由思想や民主主義がどう根づき、どこで破たんし、どうやって再建されたかについて、偏見のない目で振り返る視座がなかった、ということだろう。
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