日本的な「その場しのぎの議論」を今後も繰り返すことになりはしないか
2015年12月25日
パリ同時多発テロ事件の直後に、「EU(欧州連合)にも集団的自衛権はあったのですか」と人に聞かれた。もっともな質問だ。
テロの4日後の11月17日に開催されたEU国防理事会は、フランス政府が求めたEU基本条約(リスボン条約)に基づく集団的自衛権行使を全会一致で容認した。EUが初めて集団的自衛権を発動する例となった。リスボン条約は2009年に発効したが、この条約の第42条の7に規定してある条文の内容(加盟国への攻撃の際の協力支援)に基づいた措置である。
これはNATO(北大西洋条約機構)の第5条や日米安保条約の第5条に匹敵するものである。
(注1):NATO5条(原稿の末尾に抜粋を添付)
(注2):日米安全保障条約5条(主要規定の解説、外務省、原稿の末尾に抜粋を添付)
しかしあらためて言うまでもなく、EUは軍事同盟ではないので、この場合の協力は必ずしも軍事協力ではない。具体的な協力内容はフランス政府が加盟国と個別に協議して定める。フランス政府はイスラム国に対する空爆の際の支援、PKOタイプの支援を加盟国が可能な範囲で協力要請したいと考えていると伝えられた。集団的自衛権はここでは広がりのある多様な意味で用いられている。
おそらくこの話は日本の多くの国民にとっては、奇異な議論に思われるのではないだろうか。先ごろ参議院で怒号の中採択された集団的自衛権行使のための安全保障関連法をめぐる1年半にわたる議論を思い出すなら、同じ言葉を使いながら意味が違うからである。
集団的自衛権とは戦闘地域での軍事協力であってもなくてもよいのである。第5条ではそれは限定されていないからである。
この点が国内ではよく理解されていないままの議論がなされていたのが今般の議論であった。
そして結局のところ、いろんな問題を精査しないままの熟議不足による法制化は、集団的自衛権の名のもとに自衛隊の海外派遣を決して容易なものにしたわけではなかったということになるのではないかと思う。
「集団的自衛権」とは、単純化の誤解を恐れずに言えば「海外での戦闘地での同盟国との軍事協力活動」と、狭い意味で日本では理解されてきた。本来はあくまでも同盟協力の在り方を意味し、国際連合の枠組みでの集団的安全保障とは別の概念である。つまり海外でのアメリカとの軍事協力ということになれば、そこだけとらえて「戦争参加」「戦争法」という連想に繋がる人も出て来ることは避けられない。
しかもそれが米国からの要請による「半強制」的協力であるのではないか、という疑念が多くの人にある。その背景には「役割の共有(分担)」はするが、そのための「決定の共有」は本当にできるのか、という疑問がある。これはアメリカからの働きかけを前提とした場合である。
その一方で、日本側からの要請の場合には、文字通り「集団で自衛する」ということは、自力だけの防衛よりも味方がいるわけだから心強く有効だと考えると、ごく当たり前のことにも思える。また「自分が矢面に立たなくてもよい」という解釈にもつながる。他方で、本当に同盟国は協力してくれるであろうか、という疑問が出た場合には、自力を強化すべきだ、という議論になり、これは軍拡の議論にもなりうる。尖閣諸島問題をめぐる日中間の角逐を考えると、時宜に適(かな)った決定であるという理解の仕方にもなる。
あるいは日本の議論ではよく欠落しているのだが、同盟国が本当に守ってくれるのかどうかという問いにも関係してくる。同盟の信頼関係への問いである。これはNATOではよく「切り離し(decoupling)の議論としてヨーロッパがよく懸念を持つところである。
しかもこの議論は日本領土をめぐる紛争に関する問題であるから、基本的には「個別的自衛権の延長としての集団的自衛権」の理解という立場である。つまり固有の権利である個別的自衛権行使(自力防衛)強化のために同盟国と協力するということである。したがってこの場合の協力は日本の領域と隣接する地域を範囲とする。グローバルな安全保障のための議論ではない。
その意味では本来集団的自衛権を議論する際には、どこまでが協力の地域的範囲であるのか、ということが合意されていなければならない。
NATO加盟国間でもめるのはいつも「域外防衛」についてである。実は同盟協力の地域がどこを指すのかという議論もしっかり今回できたわけではなかった。不明確なままであった。本当に「グローバルな(戦闘)協力」ということがあるのだろうか。
今般の議論の中には同盟協力を考えるうえでの上記のような重要な点が十分に議論されてきたようには思われない。したがって多くの日本人には集団的自衛権と安保関連法の議論を理解できたと確信できないのが本音のところではないか。そして海外では日米軍事協力がより緊密化し、第9条によって禁止されていた自衛隊の戦闘行動参加が容易になったとだけ理解されているのではないか。
政府がいくら国民の理解が進んでいると言っても、この問題に関して政府支持が上昇しない原因はそこにある。そして、要は日本はできるだけ戦争に「巻き込まれないように気を付けよう」というところに落ち着いているのではないか。つまり国民心理はこれまでと変わらないのである。これでは本質を踏まえたきちんとした結論とは到底言えない。
出発点となる論点や言葉の定義についての合意が不明確であるからである。そうした中での安全保障関連十法の成立であった、と筆者は思う。多くの人が何か居心地の悪さを感じる理由はそこにある。集団的自衛権の議論をするときには、まず同盟が内包する多様な意味をまず整理し、理解しておく必要があろう。
問題のおおきなひとつは、用語の定義について国内の議論と世界の定義にズレがあることだ。すでにEUリスボン条約について触れたが、もう一度この集団的自衛権の意味に立ち戻ってみよう。
実は我が国では「海外での同盟国との戦闘協力」と解釈されている集団的自衛権は、国際社会ではもっと広い意味で理解されている。
しかし先に挙げたEUとは違って文字通り、軍事防衛同盟を主要目的とするNATOにおいても、この言葉はこの日本の解釈よりもはるかに広義に理解されている。多国間機構であるNATOと二国間協力である日米同盟を同列に論ずることはできないが、集団的自衛権に関する条文はNATO憲章でも日米安保条約でも同じく第5条に位置づけられている(注1参照)。
NATOの集団的自衛権の行使は、冷戦期の東西軍事対立を前提として組織されたにもかかわらず、それが実際に発動されたのは冷戦終結後の9・11同時多発テロ直後のことであった。EUの集団的自衛権発動もパリのテロ直後であった。しかもその内容はいずれの場合も「海外の戦闘地域での軍事協力」を加盟国に強制するものではなかった。
アフガニスタン攻撃のために一度だけ発動されたNATO第5条の集団的自衛権の行使への加盟国の対応は一律ではなかった。武力行使の協力から単なるモラル・サポートまで多様であった。後方支援ももちろん含むものである。NATOにはアイスランドのように軍隊を持っていない国もある。NATOはそれらすべての支援を一律に課することはできない。
EUは共通防衛政策を次第に構築してきている。それはボスニアや今後での戦闘行為だけでなく、紛争終結後の平和構築における文民活動も含むものである。この分野は政府間協力という立場で承認されており、いわば「紳士協定」のようなもので加盟各国に義務は発生しない。しかもEU加盟国のすべてではなく、それぞれの政策に同調する国が自発的に活動に参加するというもので、しかも最近ではまさしく自衛隊の復興支援や平和構築活動に相当する活動や、民主化協力が主要な役割となっている。
だとすると、集団的自衛権行使の容認は、国際的に見ると必ずしも日本が同盟国とともに、戦場で軍事協力を強制化することを意味しない。広義の集団的自衛権の解釈からすると、日本はすでに、後方支援、資金提供等の形で多大な貢献をしており、多国籍軍や同盟国に対して集団的自衛権は行使しているというのが、筆者の立場である。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください