少し長めの「前書き」として
2016年04月01日
「民主主義をつくる」は、①巻頭論文+②「自由って何だ? SEALDsとの対話」(4回)+③五百旗頭真・熊本県立大理事長インタビュー(3回)の三つで構成しています。
「今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか」
こんな言葉が巻頭に置かれた二巻本が刊行されたのは、1948(昭和23)年10月から49(同24)年にかけてのことでした。タイトルは「民主主義 文部省著作教科書」。当時の文部省が中学、高校生向けに作った教科書です(復刻した径書房版から引用)。
二巻本は「文部省著作」とされ、当時、だれが執筆したのかは明らかにされませんでしたが、アメリカなどの資料を調べた教育学者、片山宗二氏の研究により次のことが判明したと1995年8月21日の朝日新聞記事は伝えています。
1946年、文部省は、連合国軍総司令部(GHQ)からの要請を受け、憲法学者の宮沢俊義氏らを集めて委員会を構成。教科書の本文は、経済学者で後の東大総長・大河内一男氏らが執筆し、東大教授で法哲学者の尾高朝雄氏が全体をまとめた――。
「民主主義は、きわめて幅の広い、奥行きの深いものであり、人生のあらゆる方面で実現されて行かなければならないものである。民主主義は、家庭の中にもあるし、村や町にもある。(中略)複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見わたすためには、よい地図がいるし、親切な案内書がいる。そこで、だれもが信頼できるような地図となり、案内書となることを目的として、この本は生まれた」
「これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立っていく道はない。これからの日本人としては、民主主義をわがものとする以外に、人間として生きて行く道はない」
いま読むとあまりにもストレートな表現でいささか気恥ずかしさすら覚えるのですが、とはいえ後段の下りからは教科書をつくった当時の人たちの民主主義に対するほとばしるような熱気が伝わってきます。そこには、「国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった」状態からようやく解き放たれたという開放感と、そして「なんじ臣民」に代わって今度こそは「われら国民」が国の主権者になって新しい社会をつくるのだという強い決意があったのでしょう。そんな〝熱い時代〟がこの国にもあったのです。
そして、多くの歳月が流れました。大勢の人々が国会を取り巻いた1960年の安保闘争、続く70年の安保闘争などを経て、学生運動や社会運動は長い低迷期と衰退期に入り、「デモ」という言葉は多くの人々にとって意識の後景に退いてしまったかにみえました。
そんな眠りを覚ますかのように、2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が大地と人々を揺さぶって未曽有の被害をもたらし、世界を震撼させました。
「方舟の善民はみな呑まれけり」/「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」/「喪へばうしなふほどに降る雪よ」/「三・一一民は国家に見捨てらる」(岩手県釜石市在住の照井翠さんの句集「龍宮」、角川書店から)
「ろうそくがともされて/いまがむかしのよるにもどった/そよかぜはたちどまり/あおぞらはねむりこんでいる」(谷川俊太郎「ろうそくがともされた」から一部抜粋、「管啓次郎・野崎歓編「ろうそくの炎がささやく言葉」、勁草書房所収)
あのとき感じた衝撃と悲しみ、底なしの不安と怒り、そして言葉がすべてのみこまれてしまったかのようなもどかしい「失語感覚」……。真夜中でも煌々(こうこう)と明かりがついているのがあたりまえだった東京の繁華街や街中も、あれからしばらくの間はほんやりと薄暗く、「今度こそ何かが変わるかもしれない」という淡い期待感のようなものを抱いたのは私だけだったでしょうか?
けれどもそうしたナイーブな思いはほどなく始まった「バックラッシュ(反動)」によって打ち砕かれていきました。原発をめぐる政・官・財の「強固なトライアングル(三角形)」、さらにはこれに学者とメディアが加わった「原子力ムラのペンタゴン(五角形)」は微塵も揺らがなかった上に、原発事故を収束させる見通しも、高濃度の汚染水をコントロールするメドも立たないなか、経済界の要請も受けながら原発の再稼働に向けた動きが始まっていったからです。
3.11ですら日本を変えることはできなかったのかーー。そんな思いにとらわれてから4年後、敗戦から70年が過ぎた2015年に、一つの根源的な問いが突如としてこの国に浮上しました。
「民主主義とは何か?」
集団的自衛権の行使などを可能にする安全保障関連法案が2015年9月19日未明、参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決、成立したことが直接のきっかけでした。
国会前を始め、各地では連日のように激しい抗議のデモが繰り広げられました。労働組合など、団体による組織的動員がメーンだったかつての運動形態とは変わり、一人ひとりの個人が自分の意思で参加するスタイルが目立ち、デモの風景も一変しました。
「民主主義って何だ?」「民主主義ってこれだ!」。若者はトラメガ(拡声機)を使ってこの言葉を叫びました。かつてのパターン化されたシュプレヒコールに代わり、ヒップホップを参考にした掛け合いの「コール・アンド・レスポンス」が路上に響いたのは記憶に新しいところです。
学生団体の「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)を始め、なぜあれだけ多くの若者がデモに参加したのか。この国の不透明で危うい未来を予感した若者たちは、今後「我が身に現実に降りかかる可能性のある危機」を体で感じて声を上げたのではなかったでしょうか。
わき起こった「参加民主主義」の流れを、「代議制民主主義」の現場に環流させていこうという動きでもあった「2015年安保」。デモには参加せずとも、心の中で「民主主義とは何か」という問いと真摯(しんし)に向き合った人々の数は決して少なくなかっただろうと推察します。
安保法制をめぐる論議は、民主主義のあり方を始め、いくつかの重要な「覚醒」を人々に迫る引き金となりました。その一つが「立憲主義に対する目覚め」ではなかったか。
過去の歴史を振り返ってみれば、選挙で民主的に選出された政権がいつしか独裁政治を始め、ファシズムがわき起こった末に国を滅ぼしてしまった例は多くあります。このため、国民が権力を縛るための「ルール」(憲法)を定めておき、民主主義の暴走にストップをかける、それが立憲主義という考え方です。学生時代に教科書で習ったとはいえ、身近なものとして身体化され、記憶されてはこなかったこの言葉の持つ重さが、安保法制論議を通じて人々の意識に新鮮な「気づき」を与え、広がっていった――。
安保法制に対する考え方は、賛成、反対、人によって様々でしょう。しかし今改めて問われるべきは、多くの憲法学者から「憲法違反」が指摘されて法案の正当性に疑問符がつけられる中、時間をかけてじっくり議論すべき論点が複数のフェーズにまたがっていたにもかかわらず、11本もの法案が一括で審議された末に「強行採決」されたという事実でしょう。
その結果、保守やリベラルといった考え方や立場の違いとは別に、あるいはそれらの差異を超えて、成立した安保法制が今後具体的にどのように運用され、その結果、何がもたらされるのかをめぐって、いくつもの疑問や不安が宙づりにされたまま、今に至るも解消されていないという事態を生んだのです。
「すべての人が負けたのだ」
東京大学法学部教授(憲法学)の石川健治氏は、昨年11月に早稲田大学で開かれた「立憲デモクラシー講座」(主催:立憲デモクラシーの会)の中でそう強調しました。
安保法制論議では、政権を始め成立を強く望んだ推進派と、それを阻止しようとした反対派が激しくぶつかったあげくに成立した、つまりは推進派の「勝利」だったーー。そう理解している人は多いでしょう。しかし、石川氏は「そうではない」と説くのです。
では、一体、誰が負けたのか。
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