放送法の趣旨に反する「プレッシャー」
2016年02月15日
安心してください、監視していますから――政府にこう言われて、気持ち悪いと思うか、頼もしいと思うかの差がある。
おそらく、嘘が多いし偏向しているテレビをちょっと懲らしめてくれるなら、役所に任せようか、と思っている人が世の中には多いのではあるまいか。
第1は、後述するように、「ホップ・ステップ・ジャンプ」というように、行政権による番組規制のハードルが明らかに下がり、政府が直接的に放送局の懐に手を突っ込む姿勢を示したことだ。
第2は、一般市民のメディア批判、さらには市井の応援団の動きに同調する形で、怯(ひる)むことなく確信犯的に発言を繰り返している点だ。
そして第3が、繰り返し政府見解を繰り返すうちに、どんどん既成事実化し、それにつれてこれまでの法解釈の蓄積が雲散霧消してしまう危機にあることだ。
ここではそのうち、第1を中心にその歴史的変遷と法解釈の問題性を呈示してみたい。
政府の放送法解釈に瑕疵があることについては、すでに多くの識者が述べているところであるので、ここで繰り返さない(本欄の拙稿を参照してほしい)。
メディアにおける「公平公正」とは何か?(上)――ジャーナリズムを縛る「魔法の呪文」(WEBRONZA)
メディアにおける「公平公正」とは何か?(下)――「数量公平」ではなく、「質的公正」を実現すべきだ(WEBRONZA)
ただし、放送法はあくまで放送の自由を保障するものであって、放送局を縛るためのものではないことだけは再確認しておきたい。それは放送法の目的であり性格そのものであるからだ。
もしそれを変え、放送法の規定に反することを理由に政府が何らかの法的処分を課すことを認めるのであれば、それは解釈変更ではなく法そのものの全否定を意味する。
さらにいえば、
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