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 2011年2月1日、編集委員として駐在していたエジプトのアレクサンドリアから、連日デモが続いていたカイロに移った。

 早速、その日の午後、中心部のタハリール広場に行ったが、その雰囲気はまるで解放区のようだった。お祭り気分といってもよかった。人々は「ムバラク、去れ」と声を張り上げていた。

 その時、これはどこかで見たというデジャブの思いにとらわれた。それはイラク戦争の後に、「キファーヤ(もう、たくさんだ)運動」の活動家たちがイラク国民議会の前で、治安部隊に囲まれながら叫んでいた光景であった。その時はせいぜい100人程度の人数だったが、それから7年が経過したいま、エジプトでは人々がタハリール広場を埋めつくしている。

ムバラク支持者の異様な興奮

 平和な空気が一転したのは翌2日だった。昼前に車でカイロ市内を回ってみると、タハリール広場の周りのあちこちでムバラク支持を唱えるデモが始まっていた。

 ムバラク支持派のデモを見たのは反対派のデモが始まって初めてだった。それぞれ100人ほどの規模で、トラックに乗ったグループもあれば行進しているグループもあった。

 タブラと呼ばれる筒状のドラムやタンバリンを持った男たちもいた。それはムバラク体制下の選挙で、与党の国民民主党に雇われて選挙運動をするグループと雰囲気がそっくりだった。

 富裕層の中にムバラク支持派がいることは確かだが、町に繰り出している者たちは、富裕層そのものではなく、富裕層から金で雇われた者たちであることは一目瞭然だった。

 私はカイロのダウンタウンの繁華街で、ムバラク支持者たちの一団と会った。その一人の中年女性に「なぜ、ムバラクを支持しているのか」と質問した。

 女性は声を張り上げて「ムバラクは偉大な指導者だ」「ムバラクのために我々は戦う」と叫んだ。これはインタビューにならないと思って、打ち切って道路脇に駐車していた車に戻ったが、女性は追ってきて、「なぜ、お前たちは私の言うことを聞かないのか」と言って、車の窓ガラスをばんばんと叩き始めた。

 私は車を発進して、その場から逃げた。ムバラク支持者の異様な興奮が伝わってきた。カイロには危険な空気が広がっていた。

「ラクダの日」の投石合戦

 その昼過ぎに、ムバラク支持のデモ隊がタハリール広場に押し入ろうとして、中にいたデモ隊との間で「衝突が始まった」というニュースが流れた。私はあわてて広場に戻った。

タハリール広場でムバラク支持派とデモ隊の間で投石合戦があり、運ばれる負傷者=2011年2月2日拡大ムバラク支持派とデモ隊の間の投石合戦による負傷者が運ばれる=2011年2月2日、撮影・筆者
 衝突があったのは、エジプト博物館の脇の入り口で、私がナイル川の方から広場に入ると、投石合戦となっていた。

 その様子を広場で見ていると、石つぶてを頭や顔に受けて、血だらけになった負傷者が、数人の男たちに担がれてきた。

 投石合戦の背後にいるデモ隊が、歩道のコンクリートタイルをはがして砕き、石つぶてにして、前線に運ぶ作業が始まった。

 さらに、背後から「カンカン」という鉄を叩く音が鳴り始めた。デモに参加している女性たちが、車道と歩道を区切っている鉄柵を石で叩いて、音を出していた。

 その時の様子を、私は「中東マガジン」で次のように書いた。

<リーダー的な男たちが、投石に加われずに、後ろで傍観している若者たちに、「前に出るんだ。応援にいけ」「何を恐れている。恐れるものはない」と衝突に加わるように呼び掛けた。
 タハリール広場にいた男性(五二)は「投石をして状況を悪化させたのは、向こうの方だ。我々は女や子どもを連れて平和的に民主化を求めていた。大統領支持派は秘密警察や与党に金で集められたバルタギー(ギャング)たちだ」と語った。
 民主化要求デモ隊で、投石合戦の中心になっているのは明らかにムスリム同胞団の若者たちである。同胞団の関係者は「これは体制との戦いなのだ。同胞団から参加しているものたちは、ここに死ぬつもりで来ている。大統領支持派といっても政府から金をもらってかり集められた人間たちに屈するわけがない」と語った。
 次々と前線から頭から血を流す若者が担がれて運ばれてくる状況は、衝撃的である。同胞団が主力となっている民主化デモの前線に対抗する大統領支持派の方も、普通に動員された人間ではなく、かなりの猛者が集まっているだろう。それをアラビア語では「バルタギー」と呼ぶ。日本でいえば「やくざ」のような存在だ。昨年一一月の人民議会選挙で、ムスリム同胞団の支持が強い場所では、治安部隊が出て投票所を封鎖した。治安部隊までは出ないが、警察が投票所の出入りを制限しているような投票所で、こん棒を持って投票所の入り口に立ち、人々を威嚇しているグループがいる。それは与党から雇われたバルタギーだと言われる。同胞団の候補を殴るなど荒っぽいことをしていたのである。
 大統領支持派の大規模な動員とタハリール広場での衝突は、民衆による民主化運動の強制的な収束につながるのか。混乱が広まったということで、政府や軍が事態収拾に乗り出すという名目で介入し、民主化デモを退去させることになるかもしれない。>

 その衝突の日は「ラクダの日」と呼ばれている。投石合戦が始まる前に、ギザのピラミッドにいる観光ラクダの業者たちがムバラク支持デモに参加し、その一部がタハリール広場に乱入し、広場のデモ隊に抑えられたことから、そう呼ばれた。

 それはエジプト革命の決戦の日だった。この衝突によって、世論は強硬策をとるムバラク体制への批難を強めた。3日はタハリール広場に大勢の群衆が集まった。

新しい歴史の始まり

 その翌日の4日は金曜日だった。大規模衝突があった1月28日から1週間である。どのような金曜日になるのか、またムバラク支持派の巻き返しがあるかもしれない。不安がいっぱいだった。

 金曜日を迎え、私はタハリール広場に行った。そこで、「ムバラクやめろ」と叫ぶ、それまで見たこともない大群衆を目にした。

 私はこの日の広場を見て、「新しい歴史の始まり タハリール広場から」という記事を中東マガジンに書いた。

<いま、私は、カイロのタハリール広場から戻ってきて、この記事を書いている。私が今日、広場で見たことは、新しい歴史の始まりというしかない。タハリール広場は、民主化を求める群衆で埋め尽くされた。一〇〇万人を超える規模であり、さらに参加者は増えている。広場の中では、「ムバラク出て行け」「体制崩壊」のかけ声が嵐のように響く。タハリール広場はお祭りのような雰囲気で、誰の顔にも笑顔が戻った。
 これほど明確に民衆の意思が表明された後では、政治はこの民意に合わせるしかないだろう。
 3日までタハリール広場に入るタハリール橋は大統領支持派が抑えていたが、4日には支持派は一人もいなかった。
 金曜日の朝、タハリール広場の軍の司令官はデモ隊に向けて、「我々はあなたたちに銃を向けることはない。我々はあなたたちの安全を守る。安心して欲しい」と声明を出した。それはテレビでも流れた。昨日、スレイマン副大統領が「大統領支持派の行動は陰謀だ。扇動者を捜査して、処罰する」と明言したことも、民主派を力づけただろう。しかし、衝突さえ危惧された広場で、これほど大規模な民衆の動きがでるとは、驚きである。
 12時半に金曜礼拝が終わった後、続々と広場に集まり始めた。入り口では、両側にデモ隊が並んで、入ってくる人々に「お帰り、お帰り」と拍手をしながら声をかける。デモ参加者の中からは、「ようこそ、ようこそ、英雄たちの列にあなたも加わりなさい」というかけ声も響いた。
 広場の西の入り口近くで、「1月25日革命」とマジックインクで書いたTシャツを掲げている若者ホサームさん(32)がいた。デモ初日の1月25日にツイッターやフェイスブックで情報を交換してタハリール広場に集まった若者の一人だった。「今日は新しい歴史の始まりだ」と語った。しかし、「25日に集まった時には、これが民衆の革命につながるとは思っていなかった。28日に金曜礼拝の後、人々がムバラク退陣を求める運動に参加したことで、全てが変わり始めた」と話した。>

 私はこの時、ムバラク政権は終わりだと考えた。実際にそれが形となるには次の金曜日までさらに1週間が必要だった。スレイマン副大統領と野党勢力との政治対話が継続するなど、ムバラク政権の最後の「あがき」は続いた。一方で「ムバラクやめろ」と叫ぶデモも全国的に続いており、結果的に政治が機能しなくなっていた。

 私は一度アレクサンドリアに戻ったが、第2の都市でも大きなデモを目撃し、2月11日の金曜日が山場だと予感して、10日にまたカイロまで車を運転して戻った。10日夕にはムバラク大統領が演説で辞任を発表するというニュースがBBCやCNNなどに一斉に流れた。

 私はそのニュースをアレクサンドリアとカイロを結ぶ砂漠道路を走る車の中で知った。その情報は人々にも広がり、タハリール広場には「革命成就」を喜ぼうという人々が押し寄せているということだった。

 ところが、ムバラクは「秋の選挙まで国政を見守る」と語り、自分が国を憂うナショナリストであるかのような演説をした。その演説は、広場の巨大なスクリーンに、アルジャジーラと並ぶアラブ世界のニュースチャンネルであるアルアラビアTVのニュースとして流れた。人々は「いますぐ去れ、いますぐ去れ」の大合唱になった。

「あなたはエジプト人だ」

 私はその日、夜遅くタハリール広場に行った。人々は帰り始めていた。「今日、やめると聞いて、祝うつもりで来たのに」と若者は言った。市民には落胆の色が強かったが、タハリール広場を出たところで、一人の若者が両腕を突き上げて、「明日も来るぞ」と叫んだのが印象的だった。

 翌11日、また金曜日がめぐりきた。私は昼前からタハリール広場に行き、人々の話を聞き、写真を撮った。入り口では若者たちによる検問があり、身分証明書の提示が求められたが、中に入ると、頬などにエジプトの旗を塗るコーナーや紙に好みのスローガンを書いてくれるコーナーもあった。

 やぐらで組まれたメインステージの他に、いくつもの人の集まりがあった。若者たちが反ムバラクの演説やスローガンを唱える集まりや、有名な詩人を囲む集まり、直接、集会とは関係なく子供たちに絵を描かせる文化グループなどもあった。その時のタハリール広場の様子を撮影して、「市民フェスティバル」だとして上映しても違和感はなかっただろう。

2011年2月11日、ムバラク大統領の辞任が発表され、歓喜するカイロのタハリール広場の群衆拡大2011年2月11日、ムバラク大統領の辞任が発表され、歓喜するタハリール広場の群衆=撮影・筆者
 そして夕方、午後7時を過ぎて、スレイマン副大統領がムバラクの大統領辞任を発表した。

 その時、広場には大きな歓声があがった。すぐに、「アッラーアクバル(神は偉大なり)」という叫び声が上がる。神を讃える言葉であるが、同時に神の定めの下で起こった出来事を讃える言葉でもある。

 さらに「フッリーヤ(自由)」の大合唱が広がった。それに続いて、誰かが「イルファア(上げよ)、ラアサク(あなたの頭を)、フォオ(上に)、インタ(あなたは)マスリー(エジプト人)」と叫び、その言葉があちこちで繰り返された。

 「頭を上げよ、あなたはエジプト人だ」という、エジプト人であることの誇りを唱える文句は、まさにその時、タハリール広場にいた人々の思いだった。

「通り」「街」というニュースの現場で

 エジプト革命での体験は、ジャーナリストとして現場にいることの意味を実感した。この場合の「現場」というのは、タハリール広場というニュースの中心だけではなく、広い意味での「通り」「街」である。

 いまのような高度な情報化の時代には、一旦ニュースが動き始めると、ジャーナリストはついテレビやインターネットで「情報」の進展や変化を追うことになり、現場さえもテレビ画面で見ることになりかねない。

 しかし、できる限り街に出て、通りを歩き、人々を観察し、話をすることで、生の状況の変化を感じることができる。情報だけが飛び交っていても、人々の関心が向いていなければ、その情報によって社会が動くことはない。

 しかし、状況は一日で変わる。昨日は人々の関心を集めなかった情報が、今日、いきなり人々を動かし始めることもある。何か出来事が起きて、人々の意識を含む社会状況が変わることもあれば、緩慢な状況の変化の中で、人々の意識が変わって、その後で出来事が起こることもある。

 その意味で、エジプト革命は、長年、強権体制のもとで沈黙していた民衆が通りに出て声を上げたという出来事の日々の進展を追いながら、目撃する貴重な経験となった。 (つづく)

筆者

川上泰徳

川上泰徳(かわかみ・やすのり) 中東ジャーナリスト

長崎県生まれ。1981年、朝日新聞入社。学芸部を経て、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長、編集委員、論説委員、機動特派員などを歴任。2014年秋、2度目の中東アフリカ総局長を終え、2015年1月に退職し、フリーのジャーナリストに。元Asahi中東マガジン編集人。2002年、中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』(岩波書店)、『イラク零年――朝日新聞特派員の報告』(朝日新聞社)、『現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ』(岩波ブックレット)、『イスラムを生きる人びと――伝統と「革命」のあいだで』(岩波書店)、『中東の現場を歩く――激動20年の取材のディテール』(合同出版)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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