2016年07月21日
エジプト革命は若者たちのデモ(2011年1月25日)が引き金となり、大規模な民衆の反体制デモ(1月28日)が始まってタハリール広場を占拠し、2月11日にムバラク大統領が辞任するというストーリーだった。30年間、エジプトを支配した軍出身の独裁者が民衆のデモに押されて辞任するのは「革命」と呼ぶ以外にはないものだ。
軍はムバラク辞任の後、民主的な選挙に基づく民政移管が実現するまでの間、全権を委ねられた。
一方、ムバラク体制のもとで形成された官僚制や、経済界、言論界などの人物はそのまま残った。
一方で、革命を起こした若者たちと、強権下で抑えられていたムスリム同胞団という二つの力が表に出てきた。
エジプト革命後に政治を動かしたのは、(1)軍(2)革命的若者たち(3)ムスリム同胞団(4)旧政権勢力――という4つの勢力である。
旧政権勢力はムバラク体制を支え、利益を得ていた上級公務員や旧政権とつながって事業をおこなっていた実業家、旧政権を称揚した言論人やジャーナリストなどである。
革命ではムバラクとその家族や側近の一部が排除されただけで、旧政権勢力は、ほとんどそのまま残った。
少数の上級公務員と多数の下級公務員では、給料の桁が一桁、二桁も違っていた。下級公務員については革命後に、月700ポンド(約1万円)の最低賃金制を導入しようという要求が出た。多くの下級公務員はそれよりも少なかったということである。一方で「(上級公務員の)最高賃金に限度額を導入すべきだ」という議論もあった。政府省庁の幹部や、知事、国営企業の幹部、政府系の新聞や雑誌の編集長など政府が任命する幹部職員は月給100万円や200万円以上になるなど破格の待遇だったためだ。
さらに問題だったのは、公務員上級職として任用されるには有力者のコネがなければ難しかったことだ。外交官や裁判官らは特権化していた。
かつて王政時代は外交官などの公務員上級職、軍将校や裁判官などは特権的な富裕階層が独占していた。それが1954年のナセルらによる青年将校団の革命で崩れた。ナセルは郵便局員の息子で、ナセルを継いだサダトはカイロの北部にあるムヌフェイヤ県の貧しい農家の息子だった。
しかし、それから60年近くたち、独裁体制下の特権階層が生まれた。特にムヌフェイヤ県は、ナセル時代以降、軍人や裁判官を輩出する県となり、ムバラクも、現在のシーシ大統領の家族も、ムヌフェイヤ県出身という狭い世界が出来上がっていた。
民間企業でも、権力とつながっている業者だけが政府の許認可権を握り、政府の事業を請け負うことができた。学生も国内の銀行など優良企業に職を得ようとすれば、やはりコネが必要だった。いまや欧米や日本でも問題になっている「格差」は中東の独裁体制の下では、単に経済的、社会的な問題ではなく、政治権力と結びついている。
「アラブの春」で若者たちが「自由と公正」を求めて街頭に繰り出したのは、就職や所得格差に対する強い不満があったからだ。「格差」が権力とつながっていたために、その是正を求める若者たちの動きが、体制打倒へとつながった。
国民の間にはりめぐらされた秘密警察の監視網は、ムバラク体制の維持だけではなく、特権階層の権益も一緒に守っていた。ムバラク辞任後も、エジプトではいたるところで労働者や従業員、職員によるストや座り込みが頻発した。
例えば、私が朝日新聞編集委員の時に住んでいた、地中海に面するアレクサンドリアでは、アレクサンドリア図書館が2011年10月下旬からしばらくの間、職員のストのため閉館していた。
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