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[1]戦後70年の民主主義を再考する

参加、代表、多数決ー戦後はいかに成立したか

山口二郎 法政大学教授(政治学)

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、昨年12月11日に早稲田大学で行われたものをベースに、著者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページhttp://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

戦後民主主義とは何か

山口二郎教授の話に聴き入る人たち拡大山口二郎教授の話に聴き入る人たち

 今日は、チラシでは「民主主義を再考するー参加、代表、多数決」と書いてありますが、戦後70年の民主主義におけるこれらの概念を再考するというテーマであります。私はツイッターで今日の講演の予告をしました。その中で、この会の共同代表であります樋口陽一先生のお叱りを紹介しました。ちょうど2年ぐらい前、この立憲デモクラシーの会を立ち上げるための準備会をしましたが、そのあとお酒を飲みに行きました。そこで樋口先生から「なまじ民主党が政権なんかを取るから、今のような安倍政権が出て来たんです」といわれました。

 みなさんご承知の通り、私は政権交代の旗を振った張本人の一人でありまして、何とかこの時の樋口先生のお叱りにこたえなければいけないと思ってこの2年間いろんなことを考えてきました。実践での答として、安保法制反対運動みたいな政治的社会的活動を一生懸命やっています。

 今日はある意味で学問的に樋口先生のお叱りにこたえて、解決策を見いだすような話ではありませんが、政権交代を目指して進んできたこの20年ほどの日本の政治の歩みがなぜいまの政権のような政治につながったのかという道筋の説明をしたいと思います。つまりはどこで何を間違ったのかというテーマに関して、同時代的な、政治学的なお話をしてみたいと思います。

 戦後民主主義の最も重要な規範は、なんといっても「憲法」です。その憲法を読みますと、第1章「天皇」、第2章「戦争の放棄」という二つの章が置かれています。この二つの章は、日本の憲法に独特のものです。

 なぜこれが冒頭に置かれているかと言えば、やはり日本国憲法制定の経緯を反映しているわけです。日本は戦争に負けたあと、連合国に占領されました。その中で、「戦争犯罪人の責任追及」と「戦後の政治体制の構築」という、二つの作業が並行して行われたのです。

 アメリカは早い段階から天皇制を温存することを決めていましたが、昭和天皇の戦争責任を一切問わないということになると国際世論が収まらないという事情がありました。オランダ、オーストラリア、イギリスの一部などには、「昭和天皇の戦争責任を問うべし」という声もあったわけです。その天皇制を残して、占領統治を円滑に進めるという政治的な判断を可能にするためには、やはり何らかの意味でけじめをつけて、戦前と戦後の断絶性を明らかにしていく必要があったわけです。

「戦後は尊い時代だ」

 そこで、憲法の第1章に天皇制を残すとともに、第2章で「戦争を放棄し、日本は二度と侵略国家、軍国主義国家にならない」と宣言をしなければならなかった経緯があります。憲法の第1章で天皇制を残す以上、第2章「戦争の放棄」は必然的に必要とされたという経緯があり、第9条「戦争の放棄」は日本にとっての最高法規であると同時に、第2次世界大戦後のいわば国際秩序の一つの柱であったと言うことができます。

 「戦前と戦後の断絶性」ということは、戦後デモクラシーを考える上で、非常に重要な前提で、現在の明仁天皇が、最近、折に触れて強調されています。天皇は、直接、政治的な役割は果たせないわけですが、陰に陽にと言いましょうか、安倍政治に対する憂慮のメッセージを折に触れ、発しておられるわけです。今年の年頭の感想では「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが大切だ」と、おっしゃったわけです。

 ここで重要なのは、戦争は1931年の満州事変に始まったという指摘です。真珠湾を攻撃した1941年12月8日に始まったわけではない。あるいはアメリカを相手に戦争を始めただけではないということです。やはり、中国を相手に戦争をして、負けた。この歴史をちゃんと学びなさいと言われているわけですね。

 あるいは、今年8月15日の戦没者追悼式においては、「戦後というこの長い期間における国民の尊い歩み」という言葉を使われました。これは明らかに、「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ安倍晋三路線に対する、アンチテーゼ、抗議だろうと思います。戦後というのは尊い時代なのだと。戦後における、日本の国民が作り出した政治や経済の歩みというのは尊いのだというわけです。

誰が戦後を作ったのかー保守と革新の対立

  山口二郎教授拡大山口二郎教授

 戦後がいかにして形成されたかということについて振り返ってみますと、1945年に戦争に負けた直後からすぐに戦後がスタートしたわけではありませんでした。

 敗戦から約15年のあいだは、戦後日本の政治体制の基本原理をめぐって、保守派と革新派、あるいは右と左が対決、対立していたわけです。

 保守派のほうは、いわば戦前からずっと日本のエリートであった人とか、政界、官界の中で日本を指導した人々です。安倍晋三の祖父、岸信介もその代表格です。

 戦前からエリートであった人々にとっては、「敗戦は時に利あらず」という程度の話であって、戦争は決して間違っていなかったということになるわけですし、敗戦の後、憲法改正を強いられた、あるいはそれに伴うもろもろの改革を押し付けられたことには強い反発を持っているわけで、占領が終わったらすぐに、元の体制への復帰を図るという動きが始まりました。

 こうして、戦後の冷戦体制の中で、アメリカからも再軍備を要請されるようになったら、早速、警察予備隊から自衛隊へという再軍備を進めたのです。

 これに対して左翼、革新派のほうは、敗戦によって解放された人々ですから、戦後改革の受益者です。当然、その戦後改革の最も重要な成果である憲法を守るという運動を展開することになります。50年代はこの憲法原理、戦後体制の基本原理をめぐる左右対立の時代であり、特に左翼が反基地闘争、再軍備反対闘争などを行って、国民の素朴な厭戦感情、戦争を嫌う感情や平和意識を刺激することによって、支持を拡大していったということができます。

 つまり、早稲田大学出身の鈴木茂三郎とか、浅沼稲次郎といった左翼の指導者が、「青年よ、銃をとるな」と叫んで、大きな支持を獲得していったという時代だったわけです。

60年安保闘争

 この戦後政治体制の原理をめぐる左右対立は、1960年においてクライマックスに達しました。これは言うまでもなく「60年安保」という闘いです。このとき、総理大臣であった岸信介は、憲法改正の一里塚として日米安全保障条約(以下、安保条約)の改定を図りました。そして、新しい安保条約を国会に提出し、60年5月衆議院の強行採決によって、これを成立させました。

 しかしながら、岸による強引な安保条約の成立は国民の強い反発を招き、ご承知の通り、1960年5月、6月、安保反対闘争が起こったわけです。この大変な国民的批判の高まりの中で、岸は退陣を余儀なくされ、同時に憲法改正の野望というか、宿願も断念するに至りました。

 安保は成立したものの、岸は大きな政治的敗北を喫したわけです。岸の回顧録を読んでみますと、岸は首相の座を退いた後も、もう一回総理になって憲法改正をしたいと、本当に強い意欲を持っていたことが語られています。これを市民の側から見れば、安保条約の成立は許したものの、岸を権力の座から追放し、憲法の原理を定着させたという大きな勝利を収めたということができるわけです。

 私が学生だったころに教わった先生の中には、昔、学生時代に安保闘争で暴れた、という世代の先生がおられました。ただ、あの時代の学生や市民は、安保条約を全部読んで、「ここがおかしいから反対しよう」という反対の仕方をしたわけでは、たぶんなかったと思います。

 やはり、衆院における強行採決、あるいは岸信介という強権的リーダーの存在が、戦後民主体制への危機である、脅威であると思って、安保反対というよりも、本心は「岸を倒せ」という動機で安保闘争に立ち上がったのです。その意味で、岸を倒したということは、やはり政治的な勝利であったし、これはいわば自民党の中での政権交代を促した、誘発したという効果を持ちました。

「解釈改憲」が生まれた1960年代

山口二郎教授拡大山口二郎教授

 ご承知の通り、そのころの自民党には派閥の多様性があり、右側の岸に対して、まあ多少中道的な、あるいは多少リベラルな宏池会という派閥があり、岸から池田勇人に権力が移行する。それに伴って、戦後政治体制に関する位置づけも変わりました。

 池田のブレーンには大平正芳、宮沢喜一といった大蔵官僚出身の政治家がいました。前尾繁三郎のような教養のある人もいました。この人たちは、やはり財政家で、数字でものを考える合理主義者でした。ですから、先の世界大戦は、やはり国力のない日本が無謀にもアメリカに戦争を仕掛けた、大変な大きな間違いであったという認識から戦後の日本を考えるという発想があったわけです。そうすると憲法9条というのは、軍備拡張をしないためのまことに好都合な歯止めであるという捉え方が出てきます。

 60年代以降の自民党政権は9条の解釈を変えました。いわゆる「解釈改憲」ですね。50年代までは左翼も保守も、やはり9条と自衛隊は相容れないという認識に立っており、だから左翼は再軍備反対、非武装中立を唱えたわけですし、保守は憲法9条を改正して、すっきりした軍隊を持とうと考えたわけです。

 しかしながら、60年代以降の自民党政権は9条の枠の中に自衛力を収めるというある意味でアクロバティックな憲法解釈を編み出し、その中でほどほどの自衛力を持ち、防衛費を抑制しながら経済発展に専念する。いわゆる軽武装プラス経済成長という戦後の自民党の、黄金の方程式を打ち出したわけです。

 9条の枠の中で自衛力を持つということで、日本を守ること以外には自衛隊は絶対に使わないという「専守防衛」という理念が出てきます。当然、専守防衛の論理的帰結として海外派兵はしない。あるいは他国を防衛する集団的自衛権の行使などもってのほか、という原則が導き出されてきました。これが日本の戦後の安全保障政策の基本的枠組みとなりました。この枠組みをつくったのは他ならぬ自民党の指導的政治家であり、また官僚であったわけです。

 安保法制をめぐる議論の中で、内閣法制局長官経験者、あるいは最高裁判所の長官や判事を経験した、まさに行政や司法のエリートから「安保法制は憲法違反である」という強い批判が出たことは皆様も記憶していらっしゃると思います。

 そういった司法や行政のエリートたちが、非常に異例な形で安倍政権の安保法制を批判したというのも、60年代以降の日本の安全保障政策をつくったエリートたちから見て、この安保法制は大きな逸脱であると見えたからです。それぐらい、政治家や官僚にとってこの平和主義というのは、強い重要な規範であったと言えるわけです。

「顕教」と「密教」

 最近、文芸評論家の加藤典洋さんが「戦後入門」(ちくま新書)というおもしろい本を書かれました。加藤さんは、9条をめぐる庶民感覚とエリートの運用を、仏教における「顕教」と「密教」という言葉を使って例えています。「顕教」とは、要するに表向きの建前。つまり、一般大衆が信じる理念やシンボルとして、日本は憲法9条を持つ平和国家であるとされてきました。要するに、戦前日本と戦後日本は別の国だ、という建前があるということです。

 これに対して、「密教」とは、いわばホンネや実態。つまり、政治家や官僚は、エリートの仲間うちにおける憲法解釈のマニュアルとして、憲法9条の下に自衛隊と米軍基地を置き、軍事的にはアメリカに従属する。こういう二つの「顕教」(建前)と「顕教」(ホンネ、実態)との使い分けをしてきたということです。

 対米従属という現実はあったわけですが、加藤典洋さんによれば、日本は経済大国化による自尊心の醸成によって、この従属から由来する政治的な焦りや不満を緩和するという手法を使ったのです。そして従属の対価であるアメリカの傘を最大限に利用した。いま言った軽武装プラス経済大国路線がこれだったわけです。さらにアメリカの再軍備の要求を、9条の平和主義を盾に最小化するという非常に戦略的な知恵もあったというわけです。

 日本は憲法9条の下で「専守防衛」を守り、「集団的自衛権」は行使しない、という姿勢を貫くことで、例えば60年代末、70年代のベトナム戦争のときなどは非常に大きなメリットを得ました。隣の韓国は、米韓相互防衛条約という軍事同盟の下で、アメリカに要求され、軍をベトナムに派遣し、大きな犠牲を出したからです。

 日本の場合は、9条で集団的自衛権の行使が否定されていますから、ベトナム戦争に自衛隊を送るなどということは、少しも考える必要はなかったわけです。むしろ、経済的な面でアメリカの軍需を利用して、お金儲けをしたのです。

 平和国家、経済的繁栄の背後には、そういう問題もありました。さらに沖縄は当時、まだ日本の施政下にはなくて、米空軍のB52の発進基地になっていたという問題はあったわけです。

 したがって、この平和主義を能天気に賛美することはできませんけれども。そのような限界はありながら、全体として統治エリートはそのような知恵をこらしながら、平和と繁栄の路線を進んだと言うことができます。

「密教」の特徴とその限界

 先ほどお話しした「密教」。つまり、統治エリートたちがつくった憲法9条の運用マニュアルの特徴の限界を見ておきますと、これは内閣法制局を中心とする官僚のいわばアート、芸術的作品であったという性格があります。

 解釈、あるいは内閣の見解という形式をとっていたために、規範性に限界があった。つまり憲法そのものから、誰にでもわかる形で規範を立てるのではなくて、憲法を素直に読んだら、自衛隊も戦力に当たるじゃないかという、まことに正直な疑問が出てくるわけですが、それを無理やり抑えこむかたちで、内閣見解という形式の規範をつくった。ですから、規範としては少し弱い、もろいところがあるわけです。

 芸術作品としての「密教」の規範は、一般の人々、大衆の顕教信仰、つまり9条、平和国家という信仰に支えられつつ、かつ大衆の側の一定の知性や平和感情を前提としている。つまり「戦争はいやだ」という感情、あるいは官僚や政治家に対する「あの人たちに任せておけば、そうひどいことにはならないだろう」というような、ある種の信頼感を前提としていたということです。

 したがってこの前提が崩れ、反知性的大衆が顕教を、つまり建前というものを根本から疑うという時代になってくると、密教としての9条解釈というのも非常にもろさを露呈するという展開になっていくわけです。それが、この10年ぐらいの憲法をめぐる現象です。(続く)

(撮影:吉永考宏)


筆者

山口二郎

山口二郎(やまぐち・じろう) 法政大学教授(政治学)

1958年生まれ。東京大学法学部卒。北海道大学法学部教授を経て、法政大学法学部教授(政治学)。主な著書に「大蔵官僚支配の終焉」、「政治改革」、「ブレア時代のイギリス」、「政権交代とは何だったのか」、「若者のための政治マニュアル」など。