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[1] 「憲法9条の削除・改定は必要か」

立憲主義、民主主義から考える

杉田敦 政治学者、法政大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、1月29日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

杉田敦氏講演する杉田敦教授

政治学と憲法学の接近

 私は政治学者で、憲法は専門ではないわけですが、10年くらい前から憲法学者の方々とご一緒する機会が増えました。小泉政権と安倍政権、特に第一次安倍政権が憲法をいじるという意図をかなり明確にしてきた中で、恐らく憲法学者の方々も、政治学をやっている人間とも話をしてみたいという、そういうことがあったんじゃないかと思います。

 そもそも憲法は政治と非常に密接な関係があるわけで、憲法の枠内で政治は行われている。他方で憲法をつくる、あるいは憲法を変えるというのは、これは政治である。普段は政治というのは憲法の中でやっているわけですが、時々この憲法という枠をつくる、あるいは変えるという、そういうところに政治が関係してくるということになります。

 ですから、政治権力というものを考えるときに、どうしても憲法の問題を考えざるを得ない。そういう自分自身の関心からも、いろいろ憲法学者とお話しして、勉強してきたということです。

 ただ、政治学全般は、例えば10年前に憲法の問題、あるいは憲法学の動向というものにそんなに関心を払っていたかというと、そうではなかったと思います。日本の戦後史においても、ある時期には、つまり極めて初期においては、政治学と憲法学はかなり近かった。しかしその後、かなり長い間、あまり接触を持っていなかったと思います。しかしながら、このような、戦後史の中でも例外的というほど、憲法にある種の関心を持った政治家集団が出てくると、当然のことながら、政治学として無視してはいられないと私は思いましたし、この2、3年の動きというのは、そういう負の予感というか、危惧を裏書きしてきたと言えます。

立憲主義と民主主義の緊張関係

 ところで、ここは「立憲デモクラシー講座」ということで、立憲主義とデモクラシーという二つの言葉を組み合わせた立憲デモクラシーという概念については、もうすでにこれまでのいろんな話の中でも確認されているかとは思うんですが、改めて少しだけ申し上げておきます。立憲主義とデモクラシー(民主主義)というのは、必ずしも常に調和する、あるいはいつも同じ方向を向いているというものではない。もう少し言えば、緊張関係がそれなりにあるという、そこのところはやはり改めて認識しておく必要があると思っています。

 というのは、政治権力との関係で言えば、民主主義は、究極的には、私たちの権力をつくり出す、私たちが自らの権力をつくり出すんだと。あるいは私たちが関与する形で権力ができる。そしてその権力が行使される。こういうのがデモクラシーなんですね。ですから権力をつくるという意味で積極的な作用を持っています。

 それに対して、立憲主義は、これもいろんな理解があるということは、すでにこれまでにも聞いていらっしゃると思いますが、突き詰めて言えば、政治権力の暴走を抑制するということですね。政治権力を抑制的に運用するということが立憲主義の中心的な要素ではないかと思います。

 そうしますと当然のことながら、権力に対しては消極的というか、ネガティブな要素を持っている。権力を慎重に運用する、抑制的に運用するということは、要するにブレーキをかけるということですから。

 そうなりますと、この立憲デモクラシーという一つの概念、これこそが現在の私たちの政治体制、まさにconstitution、政治体制というのは憲法と同じくconstitutionという英語で表現することになりますが、この私たちのconstitutionである立憲デモクラシーは、内部に緊張関係を持っているということです。緊張関係を持ったものを運用することは、非常に繊細な働きかけを要するわけで、手荒に扱うと、すぐ壊れてしまう。

民主主義要求としての改憲論

 このこととの関連で、現在、改憲論というものが立憲主義と民主主義のどちら側のほうから出てきているかというと、民主主義側から出てきている。完全に踏み外しているようなものは別にとして、一応立憲デモクラシーの内側から出されているような改憲論、あるいはそれに類するものは、立憲主義側からではなく民主主義をより重視する側から出てくるということが言えます。

 「立憲」という言葉は、一見したところ、憲法を立てる、憲法をバンバンつくるという言葉のようにも見えますが、これは誤解であり、立憲主義というのは憲法を大切にするということですから、憲法を「安売り」することはしない。これに対して、先ほども述べたように、民主主義は私たちが権力をつくるということですから、もしも改憲論が出てくるとしたら、こちらからだということです。

杉田敦氏聴衆を前に講演する杉田敦教授
 96条改正論が、一時、安倍政権方面から出され、反対が多いということで、ひとまず引っ込められた。しかし今後とも予断を許しません。この96条の改正論が出てきて以来、あるいはその前後から、繰り返し言われているのが、憲法をどんどんつくる、あるいは頻繁に改正する方が民主的なんだと、こういう議論です。

 例えば大阪の橋下徹さんをはじめ、安倍首相を含めて多くの政治家たちが、96条との関係で「厳しすぎる憲法改定の条件を緩めて、国民投票という形で民意を頻繁に聞くようにすることは、民主主義を強めることだ」と、こういう趣旨のことを繰り返し発言しています。

 これについてどう考えるかというと、そういう話が出てくること自体は、ある種の民主主義観からすれば不思議なことではない。つまり橋下さんとか、あるいは全く同じとは言いませんが、安倍さんの民主主義観からすれば、そういう議論、頻繁に民意を聞くという議論が出てくるのは不思議なことではない、ということをまず確認しておきます。

プレビシット的な改憲

 これに対しては、いくつかの点から反論できます。一つは、そもそもこの憲法改正というのは、どういう手続きで行われるのか。これはまさに96条が規定しているわけなんですが、国会の衆参それぞれの総議員数の3分の2によって発議する。その上で国民投票にかけられて、国民投票で有効投票の過半数を得れば改正できる。

 ということは、憲法改正の発議は国会議員しかできないということを意味しているわけです。つまり、私たちが、もっといい憲法案があるんじゃないか、こういうものをやりたいと、署名を集めたり何かしたら憲法改正発議ができるかというと、そういうことはできないシステムになっている。現憲法の下で、この憲法改正規定自体の改定も含めて、憲法を改正しようとすれば、国会議員の3分の2が賛成するものでなければ、できないということになります。

 もちろん国会議員は国民の代表ですから、民意と無関係だとは言いませんが。しかしながら現在のような形で、首相、つまり国会において行政府の長に選出された内閣総理大臣が先頭に立って、「憲法を変えるべきだ」と主張する、こういうやり方というのは、民意の聞き方としてどうなのかということは、確認しておく必要があります。

 ご存知の方も多いと思いますが、国民投票・直接投票は二つの類型にしばしば分けられます。もちろん厳密に、常に分けられるとは言えませんが。

 一つはレファレンダムと言います。それからもう一つ、プレビシットと言います。細かい説明のためには時間がないんですが、レファレンダムというのは、政治家に任せておけないから私たちが民意を示しますよ、ということで、下から要求する。

 最近も、いくつかの自治体で、例えば原発問題について住民投票への請求が行われています。昨日も愛媛県の八幡浜市というところで、伊方原発の是非をめぐる住民投票の直接請求が行われ、市議会によって拒否されましたけれども。こういう、下から要求するというのがレファレンダムです。

 それに対して、プレビシットというのは、政治家が「私はこういうことをやりたいんだ、皆さんどう思いますか」と言って、国民投票とか住民投票を要求して、そして上からやる。そして多くの場合、自分の望んだ結果が出るまで何回も投票をやろうとする。これは別に大阪の方のことを直接言っているわけではないんですけれども。こういうのが典型的なプレビシットで、動員的なもの、人を動員するようなものですね。

 頻繁に憲法改定を発議するというのは、しかも行政府の長である首相自ら率先して憲法改定の必要性を叫ぶというのは、これはどう考えてもプレビシット的なものにならざるを得ないわけです。国民の間から、どうしても憲法を変えなければならないという要求が巻き起こっているわけではありませんから。これが憲法改正を頻繁にやれという議論に対する批判の第一点です。

デモクラシーの暴走を抑える立憲主義

 第二点として、そもそも私たちの体制は純然たるデモクラシーではないという論点があります。これは私の考えなので、異なる意見の方ももちろんいらっしゃると思いますが、「立憲デモクラシー」である以上、デモクラシー、民主主義の純度だけをどんどん高めて行けばそれでいいということにはなりません。

 例えば橋下さんなどは、憲法はどんどん改正して、うまくいかなかったらまた改正すればいい、そういうふうに何度でも改正して、どんどん良くしていけばいいんだと、ある意味で前向きなことを言っていますよね。どんどんやってみよう、案ずるより産むがやすし、というような考え方です。

 後ほど紹介する法律学の井上達夫さんなども同じようなことをおっしゃっています。「失敗に学ぶのが民主主義なんだ」と。「民主主義は失敗を恐れない。どんどん失敗すべきだ」と言うんですね。

 そういうご意見もあるでしょうが、私のような臆病な人間はそういうデモクラシーにはやっぱりついていけない。そうではなくて、もう少しよく考えた上で、どうしてもやらなきゃならない、そういうときにだけ改憲したいですね。そんなに何回も何回も、法律を変えたり金利を変えたりするのと同じようなレベルで、頻繁に憲法を変えていくようでは、立憲主義というものは完全に失われてしまうと思っているわけです。

 こういう反論をしますと、民主主義なんだからブレーキをかけるのはおかしいんじゃないか、反民主主義的じゃないのか、という議論がよくなされるわけです。橋下さんなどもよくおっしゃってきました。「民主主義と矛盾している」と。

 しかし、それは「純粋民主主義」というか、「暴走民主主義」のほうから言えば、そういうふうに見えるというだけで、そもそも「立憲デモクラシー」というのは内部に矛盾をはらんでいる、緊張関係をはらんでいる、ということを先ほどから言っているわけで、ブレーキがあるのはおかしいという批判は当たらないということです。そもそもハイブリッド的な混合的な体制なので。

憲法改定の限界とは

 以上、立憲デモクラシーとは何かということについての私見なんですが、次に、憲法を改定するとはそもそもどういうことなのかを見ておきたいと思います。

 昨年、解釈改憲がなされて、集団的自衛権の行使を容認する内容を含む一連の法律が通ってしまったわけですが、年頭の国会でも安倍首相は憲法改定ということに言及しています。首相周辺や、それを支える改憲勢力の憲法改定の意欲は全く衰えていません。

 先ほどもふれた96条改定論ですが、憲法改定の条件を定めた条文を使って、この条文自体を変えてしまうということが果たしてできるのか。これがまず問題になりえます。これは「憲法改定の限界」にかかわる論点です。

 しばしば混同されるのですが、憲法の改正規定を使った通常の憲法の改正と、憲法そのものを新たにつくることとは全然違います。

 明治憲法から現在の憲法への移行がどちらなのかということについては、いろんな考え方があります。これは形式的には明治憲法の改正、帝国議会における改正という形をとっていますが、しかし天皇が主権者だったのが国民主権に変わったわけで、そんな大きな改正は明治憲法の枠内でできるのかということから、やっぱりちょっと無理なんじゃないか。そこで、「8月革命」説ということで、constitutionそのものが根本から変わった、つまり法的な意味での革命が起こったと考えるのが通常の理解ですね。

 つまり、そこまで根本から変えるようなことを、憲法内部の改正規定を使ってやることはできない。憲法自体を壊すような改正、自分を壊してしまうような改正はできない、ということです。

 壊すんだったら、もう一回、革命的な事態、革命というのは何もギロチンを使うとかそういうことじゃなくてもいいんですが、とにかく権力のあり方が根本的に変わったとみんなから見えるような、そういう事態にならないとできない。そういう革命的事態を想定すれば、主権者が登場してきて憲法制定権力によって新しい憲法をつくることができるわけですが。

 しかしそういうことをやらないで、現在の憲法を前提として改正するのであれば、そこにはおのずから限界はある。これが改正権の限界ということです。改正権の限界を論じているときに、例えば「憲法制定権力が出てきたら全部吹っ飛ぶんだから、限界論はおかしい」とか、そういうことを言っている人が法律学者でもいるみたいなんですが、そうは行かない。これは全然違う問題です。

 そういう点から、96条改正論については、96条というのは憲法の本質そのものに関わるからこれは改正できないんだというのが、一つの有力な議論です。

 と同時に、9条に関しても同じような議論が成り立つ可能性もあると思います。つまり、もしも9条が現在の憲法の根幹であるとすれば、そこは変えられない。そういう議論もできるかもしれません。それについては後で述べます。(続く)

(写真撮影:吉永考宏)