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[2] 繰り返し出てくる憲法の「選び直し論」

憲法は戦後70年かけてつくられてきたものだ

杉田敦 政治学者、法政大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、1月29日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページhttp://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

講演する杉田敦教授拡大講演する杉田敦教授

憲法とは押しつけられるもの

 自民党はご存じの通り、結党以来、自主憲法制定を党是としており、そして彼らが今日までずっと主張してきている最大の論点が、いわゆる「押しつけ論」です。

 これについてどう考えるか。この憲法の起草過程において、いろんな事情があって、結局のところ進駐軍が中心となって案をつくったことは事実です。日本人によるいろいろな憲法論議等が影響を及ぼしているという話はもちろんありますが、主として進駐軍がつくった、それは事実であって、つくり方が100パーセント理想的であったかと言えば、そうではないかもしれない。

 しかしながら、この憲法がその後、極めて順調に定着し、広く受け入れられてきたことによって、この手続きの当初の「傷」は、ある程度治癒しているのではないかと私は思います。

 それからもう一つの論点として、憲法というのは、どんな憲法もある意味で「押しつけ憲法」としての性格を持たざるをえない。これは、憲法学者の長谷部恭男さんもよくおっしゃっています。

 ある時に国民の力を結集して、というのは具体的にはどういう意味かよくわかりませんが、とにかくそういうことができたとして、しかも国民投票までやって満場一致で決まったとしましょう。そういう想定で、手続き的に異議がないものができたとしても、後の世代にとってはどうなのか。何年かたてば、「自分たちは参加していない。押しつけだ」と言えることになる。そうしたら、特に必要性もないのに、また憲法を一からつくり直さなければならないのでしょうか。

 これは社会契約というものに関わる難しい問題で、どんな社会契約であっても、後の世代をどうして拘束するのかというのは、社会契約論の大思想家たちにとっても問題だった。例えばイギリスの17世紀の政治思想家であるホッブズという人も、やっぱり悩んだわけで、ホッブズは悩んだ上で、まあ後の世代もその秩序に従っている以上は黙認している、というふうに見なします。これは説明としては苦しいんですが、そういうことを言っているわけです。

憲法の「選び直し論」

 これに関連して、自民党のような人々とは違って、むしろこの日本国憲法の方向性をかなり評価している人たちの中で、「選び直し論」という議論が時々出てきます。

 これは例えば文芸評論家の加藤典洋さんが90年代、『敗戦後論』の中で展開されました。あるいは近年でも評論家の上野千鶴子さんも同じような議論を展開されています(『上野千鶴子の選憲論』)。今の憲法の内容はいいんだけれども、つくられる手続きに問題があるので、もう一回みんなで国民投票をやれば、手続き的にも正統性が得られ、より確かなものになると。だから選び直そうというんですね。

 加藤さんは、「この憲法は起源においてよごれがある」ということを90年代に強調されました。「よごれ」があるから洗い落とそう、ということになるわけですね。

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 ちなみに、このころの加藤さんには、9条について、後でふれる新9条論と近い考え方もありました。つまり、9条がある一方で自衛隊や安保があるのは「ねじれ」であり、この「ねじれ」は除去されるべきだという議論です。しかし、この点について、2007年には、考えを改めて、従来の自説は「すっきりとしすぎて」いる点に問題があり、理念と現実の間で、「矛盾を矛盾としてもちこたえ」、「「ねじれ」を生きる」という選択肢があると認めました。その後、最近の『戦後入門』(2015)という本では、改めて新9条論に近いようなことをおっしゃっているという具合に二転三転するのですが。

 こういう選び直し論も、基本的には一種の民主主義論として出てくるわけです。私たちが権力をつくりたい、私たちが憲法をつくりたい、それで何が悪いんだと。それは、単に民主主義を強調する観点から言えばそうかもしれません。ですからこれは繰り返し出てくる。

テキスト中心主義への傾斜

 これに対して、どのように考えていくのか。一つは、例えば長谷部さんの対応なのですが、憲法というのは法人の定款のようなもので、法人をつくるとき定款をつくるが、それを後からいちいち作りなおしたりしないですよねと。使えるうちは使っていればいいんだという、身もふたもない考え方です。一種の「リアリズム」だと思いますが。

 それからもう一つ、これに関連してですが、そもそも民主主義的な政治の実践というのは、憲法をつくるという形でだけ現れるものなのか。憲法の制定・改定ということに、そこまで民主主義のすべてを賭けるのか。すべての賭け金を改憲の瞬間に集中するのか。

 実は民主主義的な政治というのはほとんどの場合、一般の法律の立法のレベルで行うものです。政策決定のレベルの問題であって、実は改憲の問題ではない。民主政治を活性化するために憲法をつくり直す必要などないし、逆に言えば、憲法をつくり直せば民主主義が全部うまくいきますとか、そういうものでもない。

 ところが、法律問題の多くを憲法問題に流し込む、そういう傾向があるわけなんです。憲法というものは法律の頂点にある。だから、これを変えると、あとは何かこう、ドミノ倒しみたいに行くという、こういう発想なんですが、 ・・・ログインして読む
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筆者

杉田敦

杉田敦(すぎた・あつし) 政治学者、法政大学教授

1959年生まれ。東京大学法学部卒。主な著書に『権力論』『境界線の政治学 増補版』(いずれも岩波現代文庫)『政治的思考』(岩波新書)

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