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 仏教遺跡の町バガンで最も高い建物がタビニュ寺院だ。その向かい側にあるタビニュ僧院の一角に、この国で亡くなった日本兵の鎮魂、慰霊碑がひっそりと建っていた。

 「鎮魂」の2文字を刻んだ四角い碑の願主は「弓兵団」の戦友会だ。そばには「弓部隊戦没勇士の墓」と書いた墓碑が建つ。

どっしりとした鎮魂碑も建つ.拡大どっしりとした鎮魂碑が建つ=撮影・筆者

ミャンマーと日本軍の関係

 第二次大戦中、日本軍は32万人を超える将兵をビルマ方面軍として派兵した。

 そのうち生きて故国に帰ることができたのは約13万人にすぎない。約19万人が死んだ。それも多くは戦死というより病死さらには餓死である。

 中でも悪名高いインパール作戦は白骨の山を築いた。

 その作戦の実行に執着した牟田口廉也中将は、日中戦争が本格化するきっかけとなる盧溝橋事件で戦闘命令を下した軍人だ。

 その彼がミャンマーでは無謀な作戦を指揮して多くの兵士を死に追いやった。自分は日本に帰国し、作戦失敗の理由を「部下の無能」のせいにした。

 彼が率いた第15軍の傘下にいた第33師団は宮城県仙台市で編成された。通称を「弓」と言い、弓兵団あるいは弓部隊と呼ばれた。その犠牲者をしのぶ碑である。

 ミャンマーと日本軍の関係は深い。参謀本部の鈴木大佐が作った南機関が目を付けたのが英国植民地からの独立を目指したアウンサンだ。

 鈴木大佐はアウンサンら「30人志士」を日本に招き、彼らに武器を与えて中国南部の海南島で軍事訓練をした。英軍を追い払ったあとはミャンマーを独立させると約束したため、アウンサンらは独立義勇軍を結成し日本軍とともに英国を相手に戦った。

 ところが日本軍は ・・・ログインして読む
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筆者

伊藤千尋

伊藤千尋(いとう・ちひろ) フリー・ジャーナリスト

1949年、山口県生まれ、東大法学部卒。学生時代にキューバでサトウキビ刈り国際ボランティア、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧を現地調査。74年、朝日新聞に入社し長崎支局、東京本社外報部など経てサンパウロ支局長(中南米特派員)、バルセロナ支局長(欧州特派員)、ロサンゼルス支局長(米州特派員)を歴任、be編集部を最後に2014年9月、退職しフリー・ジャーナリストに。NGO「コスタリカ平和の会」共同代表。著書に『地球を活かすー市民が創る自然エネルギー』『活憲の時代』『変革の時代』『ゲバラの夢、熱き中南米』(以上、シネフロント社)、『一人の声が世界を変えた』『辺境を旅ゆけば日本が見えた』(以上、新日本出版社)、『世界一周 元気な市民力』(大月書店)、『反米大陸』(集英社新書)、『観光コースでないベトナム』(高文研)、『闘う新聞ーハンギョレの12年』(岩波ブックレット)、『燃える中南米』(岩波新書)など。

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