2016年05月16日
ハバナ大学と言えば――。キューバの首都、ハバナのベダード地区にある小高い丘の上に立つ、堂々たる風格の建物が目に浮かぶ。
階段の上部には優雅な女性像が鎮座する(1919年に芸術家のマリオ・コルベルによって作成されたアルマ・マター。これはラテン語で「滋養分の多い母親」の意。モデルは、フィデル・カストロがハバナ大学法学部の学生だった時代の教授の妻)。
像の背後には太く堂々としたいくつものポールがエントランスをなしていて美しい。
ポールをくぐれば、いくつもの学部を擁する建物群に至る前に緑溢れる広々とした庭にも恵まれている。
散歩をしたり、人と待ち合わせをするのにも心地よく相応しい場所だ。
ハバナ大学は、キューバでもっとも古い大学であると同時に、1728年、南・北米でももっとも早くに設立された大学の一つである。今の場所には1902年に移設された。
ここでまた、いきなり私的な感慨になってしまうが、私にとってハバナ大学の「正門」は、フィデル・カストロのエピソードにつながるものとしてある。
彼はハバナ大学の学生だった頃から政治的な意識に目覚め、ドミニカの支援に向かい、しかしそれはさまざまな行き違いや陰謀によって失敗に至り、多くの若者が命を落とした。
フィデルがなかなか帰ってこなくて、皆が「もうだめか」と思っていた頃、突然に姿を現したのが、この大学の階段の下だった、という話が強烈なエピソードとして私の中にある。
だから、最初にここの階段を見た時にも「これか」という勝手な感慨に浸っていたのだった。なんと、彼が帰って来れた最後の手段は「泳いで」である。どこからか、ははっきりしていないが、これも彼らしく、強烈なストーリーである。
実は、私はハバナ大学の学生になることにしていた。1998年から長くキューバに通いつつ、しかし、住むことになったのは2015年が初。その時、スペイン語の勉強も(目指)し、なるべく長期のビザを得られる手段として、学生になることにした。
そして、なるならハバナ大学の学生になり、フィデルの後輩という位置になれたら、ちょっとすてきだな、と。本当はスペイン語を勉強しにくる外国の生徒は、大学生になるわけではないのだけれど。
しかしこの大学での授業数が多すぎるため、私はISAというアートの大学に行くことにし、ハバナ大学の生徒というポジションはただの計画に終わった。
だが、至便性が高いため住んでいたのはこの大学の近辺ばかり。ある時は「大学通り」と並行してある、ネプトゥーノという通りに面しているカサ(宿屋に改築した民家)に住んでおり、その通りは大学の緑陰から吹き抜ける風のお陰で素晴らしく涼しい家だった。そんな恩恵を日々受けたから、学生にはならなくても「良い」ことにした。
さて、私的な話が長くなったが、ここで毎年行われるいくつかの行事の中の二つについて書こうと思う。
ハバナには多くの「月日」のついた通りの名がある。それは歴史的な事件や事実のあった日だ。
やはりベダードの、大学の近くに「Calle 27 de Novienbre=11月27日通り」というものがある。この通りの名前の理由を知ったのは、突然、大学前で大きな集会とパレードのあった日だった。
大学の近くに住んでいるのだから、年中、この前は通っている。ある日、ものすごい人だかりで、見れば集会。それに続くパレード。
大学の階段の下には、サン・ラザロ通りにつながる大学通りと、ネプトゥーノを分かつ三角形のロータリーがあるが、その真ん中には、アントニオ・メリャという人物を奉る像と名前の入った塔が立っている。
式典では塔が警備で守られながら花が捧げられる。メリャについては後に詳述する。
白い制服に身を固めた楽隊がホーンと打楽器を中心にした音楽を奏でながらパレードし、サン・ラザロ通りに向かって流れていく。ハバナ大学の学生だけではなく、他の多くの大学生が参加しているのでかなりな数だ。
昔の学生を弔い、忘れないための式典でありパレードだが、若い学生も多いせいか、全体は和やかで明るい雰囲気が漂うのがキューバらしい。
カメラに気づけば、笑顔を投げかけて我先に写ろうとポーズを決めてくれる人たちもいる。特に私の通ったアートの大学であるISAの学生は、ファッションからして独特で目立っていた。
もう一つのハバナ大学のイベントは、夜。これは12月19日に行われた大学設立を記念したコンサートだ。
アントニオ・メリャとは誰か。それは革命前から活動し続けていたいくつかの学生連盟で最も大きかったFEUの創始者である。
かれ自身はメキシコに逃れた時、マチャードから差し向けられた刺客によって暗殺されている。大学で開かれたイベントやパレードには、2日間ともメリャの肖像が登場した。
FEUは、革命前から政府転覆をはかり続けてきたグループであるし、あとの二人は、革命で活躍した有名な、そして3人ともすでに亡くなっている活動家である。
1959年の1月1日にあった革命から57年の歳月が流れた。それは日本で考えれば、2002年に第二次世界大戦の終戦時を振り返ったのと同じ歳月の経過になる。
学校ではキューバ革命を国の誇らしい歴史として教えているが、革命を実感としてとらえにくい世代は増え続け、時代の変遷は否応なくやってくる。
そんな中にありながら、今も「革命は健在だ」というメッセージを含む意図をくみ取ってしまうのは、けっして不自然なことではないだろう。 (つづく)
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