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[1] 私たちの声を議会へ

      ――代表制民主主義の再生

三浦まり 上智大学法学部教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、3月4日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

三浦まり氏(1)につく写真1拡大講演する三浦まり教授
 上智大学で政治学を教えております三浦まりと申します。今日は、こんな遅い時間なのに、たくさんの皆さんにお集まりいただきまして、本当にありがたく思います。

 私も「立憲デモクラシーの会」の会員として活動をしておりまして、その前の「96条の会」から呼びかけ人に加わって活動をしておりました。今日は今までの講座とは少し切り口を変えて、立憲主義、民主主義、平和主義が壊れようとしている現在、どうやって立て直すことができるのかということを皆さんと考えたいと思います。

なぜ、私たちの声は届かないのか?

 今日の講座のタイトルは「私たちの声を議会へ――代表制民主主義の再生」です。昨年11月に出した本と同じタイトルで、何の芸もないのですが、本の内容に即しながら、それをカバーするような形で、お話をしたいと思っております。

 皆さんも、何で私たちの声がこんなにも届かないんだろうという、不満や不安、焦燥感や危機感などを抱えていらっしゃるんじゃないかなと思います。私たちの声が国会に届いて、それがすべてとは言わないまでも政策に反映されるのが民主主義だと思ってきたわけです。ところがどう考えても、私たちの思っていることの10分の1か、100分の1か、ずいぶんと少ない声しか届いていないように見えます。

 本のタイトルは、もともともう少し固いタイトルだったのですが、2015年の夏の国会前での動きを見ながら、「私たちの声を議会に届けたい」という思いから、「私たちの声を議会へ――代表制民主主義の再生」に変えました。

3.11以降の直接行動の高まり

 実際、いままで私たちの国では、あまりデモもなかったですし、ストライキもなかったですし、直接、声をあげるということは、長い間なかった時代が続いてきました。ところが3・11以降、やむにやまれず声をあげることがたくさん出てきて、その方たちが国会前や官邸前などで、直接に声をあげ、またそのことによって多くの人が勇気をもらい、「やっぱり声をあげるって、悪いことじゃないんだ、おかしいことじゃないんだ」という連鎖が続いているような気がしております。

 ある種の日本の政治文化が3・11をきっかけに、そして去年の夏を決定的な分水嶺として大きく変わったと思います。民主主義が機能していない、とりわけ代表制民主主義が機能していない、だからこそ、直接に声を届ける必要がある、こうした認識が広がったと思います。

政治への無関心、低い投票率

 ところが、日本の人口規模と比較しますと、実際に直接行動に関わった人がどれくらいかというと、それほどの多さではないんだろうと思います。多くの人たちはまだまだ政治に対して無関心ですし、あるいはもうあきらめてしまった人もたくさんいるのではないかと思います。

 私がそういう思いを強くするのは、実は大学にいるときです。市民集会でお話しさせていただくときには、皆さん非常に熱心に聞いてくださって、とにかくいまの日本の状況を変えたい、どうすればいいんだろうという思いを共有することができるのです。しかし、大学に行くと、政治に対してとっつきにくいとか、デモは人に迷惑をかけてよくない行為じゃないかとか、下品なことなんじゃないかと考える学生も、まだまだ多いのです。

 おそらく、単純に計算したら、過半数の人は政治に対して、無関心、あるいは拒否感といったものを持っているんだろうと思います。実際、投票率も前回の衆院選、参院選で、大体53パーセント程度ですから、極めて低いです。多くの人が政治に対して希望を持てない状況になっていて、選挙は大切かもしれないけれど、一票を投じたところで何が変わるんだろうと耳をふさいでいるような状況になっているのではないかと思うわけです。

政治的有効性感覚の低さ

 政治学でこういった状況のことを「政治的有効性感覚」という言葉で分析します。自分の一票で、あるいは自分が何か政治参加することで政治が変わると思えますか?思えたら、政治的有効性感覚が高い方です。たぶんここにいらっしゃる方は結構高い方なんじゃないかなと思います。ところが、「一票投じたって何が変わるんだ」と思っている方は政治的有効性感覚が低いです。

三浦まり氏(1)につく写真2拡大講演する三浦まり教授
 この政治的有効性感覚が高いほど選挙に行くので、ならば、いまの政治に無関心な人がどうやったら選挙に行くんだろうと考えると、この政治的有効性感覚を高めることが大切になってきます。

 実際、データを見ていくと、政治的有効性感覚は時代とともに低くなっています。若者も選挙に行かないですよね。政治的有効性感覚の高い人と低い人とは何が違うんだろうかというと、一つには政治に対する知識があるかないかが関係しています。

 一票を投じることがどういう政治的な効果を持つのか。そういった知識のある方は、一票を投じる価値がよくわかるので選挙に行くわけですね。政治的知識は、やはり経験とともに深まりますから、高齢者のほうが選挙に行く意義を感じる。でも若者のほうは、自分の一票がどういう意味を持っているか、ということが、なかなか感じられにくいので、選挙に行く可能性が低くなってしまいます。

 もう一つ重要なのは、接戦だと投票に行きますよね。接戦だと自分の一票が勝敗に与える影響が大きいですから。たぶん皆さんも、夜まで起きて、一体自分の選挙区でどっちが勝ったんだろうって、気になりますよね。

 接戦であれば、政治的有効性感覚が高まりますが、一強多弱という状況では、どこの政党が勝つのか、どこの候補者が勝つのかわかってしまうので、「投票に行っても、しょせん結果は変わらない」と考え、政治的知識があっても政治的有効性感覚は低くなってしまいます。

 政治的有効性感覚を日本全体で高めていって政治参加を活発にすることが、私たちの声を届けるためには必要になってきます。

「民意」とは何か?

 よく「民意」という言葉を使いますね。私たちの民意を反映した政治になっていない、ということが、よくメディアを通して使われます。私の著書『私たちの声を議会へ 代表制民主主義の再生』の中に、「民意」という言葉を一回だけ使いました。よく使われる言葉なので使ったのですが、私自身はあまり「民意」という言葉を使いたいとは思っていません。

 なぜかと言うと、ちょっと暴力的な響きを感じてしまうからです。民意はすごくわかりにくいです。何をもって民意とするかということは、いろいろな手段で見極めていく必要があるにもかかわらず、「これが民意だ」という形で、とりわけ権力を持っている人が民意を規定することがとても多いように思います。何が民意かはもっと丁寧に見ないといけないし、また民意は変わるものだから、いろんな人が話し合いながら見出すべきだと思っています。

 「民意」という言葉の語られ方の暴力性は、おそらく選挙において、とても強いと思います。確かに選挙は、みんな一票を投じる権利を持っておりますから、そういった意味では民意を測る一つの重要なモメントではあります。

 しかし、それだけではありませんよね。よく権力を持っている与党は選挙で決まったんだから、自分たちはさも白紙委任だというような言い方をすることがあります。それに対して、デモをしている人たちは「いやいや、選挙だけじゃない。デモも民意を届ける手段、これこそが民意だ」という言い方をします。どっちが民意なんでしょうか。実際はどちらも民意なわけですね。なので、私たちは、「民意」という言葉で思考停止するのではなくて、様々な意見があるし、様々な意見の表出の仕方があるということを前提に、どうやって社会全体で、意見を表明し、それを集約して、最終的な合意形成に導くのか。そういったことを考えていく必要があるんだと思っています。

満場一致はありえない

 そもそも皆さんはどういう政策とか、どういう政治のあり方を望んでいらっしゃいますか? すごく漠然とした聞き方ですけれども……。

 皆さんの意見というのは変わることありますか? それとももう、しっかりとした政治的な意見を持っているから、それはほぼ変わらないでしょうか? 私たちがもし民主主義というものに期待を寄せるのであれば、実は意見は変わり得るっていうことを信頼しないと、民主主義を営むことはできないのです。私たちの社会、とてもたくさんな人たちがいますから、価値観も、人生経験も、いろいろ違う方がたくさんいます。その中で、満場一致で決まるということは、ほぼないと思います。

 どんなことであれ、少数派の人たちがいるし、自分たちとは最終的に折り合わない人たちもいるわけですが、でもその人たちと戦争して殺し合う、あるいは弾圧して黙らせるのではなく、平和に共存していくというのが民主主義です。だとすると実は、同じような人たちだけで意見を言い合うのではなくて、違う人たちの意見に耳を傾けつつ、自分も意見を変えていく。あるいは相手も意見を変えていく。このとき、ちゃんとしたデータに基づいて変えていくことが重要ですけれども、そういった心構えがないと民主主義は営むことができないのです。

 そういうふうに考えると、意見というのは変わり得るわけです。でも私たちの利益とか、あるいはものの見方、視座、どこからものを見つめるか、というのはあまり変わらないと思います。年齢、職業、どこに住んでいらっしゃるか、性別、どのような身体的な病気を抱えていらっしゃるか、家族の状況はどうか等々。そういったことによって、ある程度、皆さんの利益は客観的に規定されると思います。また、どこからものを見るかということも規定されると思います。でも意見は変わり得る。その意見が変わり得るということに、ある種、期待をかけながら、社会生活を営んでいくということが、民主主義のあり方なんじゃないかなと思うわけです。

代表される人々の範囲

 もう一つ重要なのは、どこまでが「私たち」の範囲なのかということです。「有権者」という言い方をすると、一票を投じる権利を持っている人ですから、投票権を持っている人だけになります。

 今年の夏の参議院選から、選挙権が18歳に下がります。つまり、18歳以上の日本国籍を持っている人が有権者です。でも日本には日本国籍を持っていない方もたくさん居住しています。でも日本政府が決めた決定は、日本国籍を持っていない方にも、当然、日本に住んでいる以上、影響を及ぼします。あるいはこれから生まれてくる子どもたち、次世代にも影響が及びます。

 いま表明される民意は、あくまで、いま生きている人たちだけ、あるいは選挙権を持っている人だけに限られています。けれども、私たちが社会を営むにあたって、配慮しなければならない人たち、声を聴かなければならない人たちの範囲は、もっともっと広いのです。そのことも念頭に置きながら、「民意」という言葉で思考停止するのではなく、「私たち」の範囲というものも、少し想像力を広げながら、考えていく必要があります。

特定の人が常に排除されるのは民主主義ではない

 先ほども言いましたように、満場一致はあり得ないということは、やはり肝に銘じないといけないと思います。特に日本みたいな同調圧力の強い社会で合意形成が重要だとなると、みんな同じ意見じゃないといけないという空気になるので、少数派の人は非常に肩身の狭い思いをします。

 「意見は違ったっていいじゃないの」という柔軟で寛容なあり方は、とても重要だと思います。

 気をつけないといけないのは、特定の人が常に排除されている状況です。これは民主主義ではないですね。全員の意見がいつも同じだけ聴かれるわけじゃないにしても、常にある特定の人が排除されている状況は民主主義ではありません。

 皆さんも何かの局面においては必ず少数派になりますね。だれもが少数派になるわけですが、でも多数派になるときもある。それが入れ替わることで合意形成していくわけですが、特定の人が常に排除される、ある地域の人、たとえば沖縄は一つの象徴かもしれませんけれども、ある特定の地域、ある特定の属性の人が常に排除されていては民主主義ではありません。

当事者は異議申し立ての権利がある

 もう一つ重要な点は「当事者」ということです。単純に多数決を取ると、一人一票ですよね。でもある決定に対しての当事者性には温度差があります。例えば、先ほど沖縄を例に挙げたので続けてお話しますが、沖縄のことを多数決で決めてしまったら、沖縄の人口のほうが圧倒的に少ないわけですから、沖縄はいつも少数派になってしまいます。しかしながら、影響を受ける当事者性という意味では、沖縄に集中した問題があるわけです。

 このように考えると、一人一票でやるべき事柄もあるけれども、でも当事者がなるべく大きな声をあげられるような仕組みも必要になってくるということになってきます。

 それを政治学では「異議申し立て」と呼んできました。最終的には多数決という決め方はあるにしても、当事者は、異議を申し立てる権利があるし、何か不服な決定がなされた場合には、次の決定に必ず参加する権利がある。そういったことを織り込んできたのが、いままでの民主主義の考え方でした。(続く)

(写真撮影:吉永考宏)


筆者

三浦まり

三浦まり(みうら・まり) 上智大学法学部教授

上智大学法学部教授.カリフォルニア大学バークレー校にてPh.D. (政治学)取得.東京大学社会科学研究所機関研究員を経て現職.専門は現代日本政治論,福祉国家論,ジェンダーと政治.主著に『私たちの声を議会へ:代表制民主主義の再生』(岩波書店,2015年),『日本の女性議員:どうすれば増えるのか』(編著,朝日選書,2016年),『ジェンダー・クオータ:世界の女性議員はなぜ増えたか』(共編著,明石書店,2014年),Welfare Through Work: Conservative Ideas, Partisan Dynamics, and Social Protection in Japan (Cornell University Press, 2012).

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