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[2] 「代表」について考える

議場にいる人たちの当事者性が極端に偏っている日本

三浦まり 上智大学法学部教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、3月4日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

三浦まり氏(2)につく写真1講演する三浦まり教授

多数決だけで決めてよいのか

 私の言っていることは、至極当然のことですよね。ところが90年代の政治改革の頃から、単純化した民主主義論がはやるようになり、いまはその時代潮流の終わりかけに差し掛かっているのだろうと思います。選挙で白黒はっきりさせるのがいいとか、あるいは多数決で決めれば、それが民主主義だといった、ほとんど暴論にしか聞こえない考え方が主流になってきました。

 改めて民主主義の定義を広げ、多数決は重要だけれども、それだけではなく、当事者の異議申し立てや、特定の人が排除されないことなど、複数の軸を持って、私たちの民主主義観を豊かにしていくことが必要です。

 多数決主義が横行している背景には、とにかく白黒はっきりさせて、だれが決めたのか責任の所在をはっきりさせた方が望ましいという考え方が90年代に台頭してきたことがあります。それまでの日本はどちらかと言えば、「合意形成型の民主主義」と言われていました。自民党の一党優位のもと、なるべく広い人の意見を聞いて合意形成しよう、時間がかかっても合意形成が望ましいという一定の了解が日本の政治にあったと思います。

なるべく広い「合意形成」を目指す

 ところが90年代の政治改革を通じて、合意形成を丁寧にやると迅速な決定ができず、また責任の所在もよくわからない。むしろ、グローバリゼーションが進展した中、もっとスピーディーに決定できるような民主主義が望ましいという考え方が広がりました。選挙制度改革を通じて二大政党制を目指し、政権党が次の選挙までの間は自由に決められるような裁量性を持つ「多数決型」が望ましいというのです。

 こうした「多数決型の民主主義」を支持する政治学者も実はかなり多いです。私の世代だと、たぶんそちらのほうが多いかもしれません。私自身は、むしろ広い合意形成を目指すほうが民主主義としては望ましいと思っています。

三浦まり氏(2)につく写真2講演する三浦まり教授
 なぜ私がそう思うのかというと、広い合意形成があった方が安定性があるということと、民主主義の正統性が高まるからです。安定性とか正統性といったことを重視すると、より多くの人の意見が包括的に含まれるシステムが必要になってきます。

そこにいない人の声を再現する

 こういったことを前提に、代表制民主主義について考えたいのですが、代議制民主主義という言い方もしますね。あえて私は、「代表制」と訳していますが、もともとの意味は「representation」です。

 私たちの国は非常に大きいわけですが、全員が全員、議場に入って、直接民主主義を営むことはできません。ですから代表を選んで、その代表の人たちが国会に入って、議論をして決定をしていく。それが「代表制民主主義」ということになります。ここで重要なのは、その「代表」がどういう意味なのかということです。

 私たちの社会は、いままであまり「代表」ということについて深く考えてこなかったと思います。「present」というのは、「いま」という意味ですね。ここにあるもの、いま。「re」っていうのは繰り返すという意味です。

 「Represent」とは、ここにないものを再現するという意味になります。よく「プレゼンする」なんていう言い方をしますけれども、プレゼンは何かを皆さんの前に出すことですね。「represent」はここにいない人の声を再現するということになります。本人はそこにいないのですね。代理人が皆さんにかわって、議場で声をあげるのが「representation」です。

 私たちは国会の前に行くことはできますが、国会の中にはいないわけですから、重要なのは国会の中にいる人たちが、私たちの声をきちんと聴いて、代表することになります。これができないのであれば、代表制民主主義ではないということになります。では果たして、私たちが選んだはずの代表者は代表としての役割をまっとうしているのでしょうか。おそらく、まっとうしていないから、機能不全が起きているのでしょう。

代表者である国会議員に信託する

 でも、改めて「代表」とは何でしょうか? 「代表者」は国会に717人いますが、717人しかいないとも言えます。717人で1億2千万人ぐらいの人口の声を聴かないといけない。未来の世代を含めたらもっと多くなります。それだけたくさんの人たちの声を国会議員だけが代弁する。一体どういう意味なんでしょうか。

 私たちと代表者の間にはいくつかの異なる関係性があります。一つは命令委任です。私たちが命令をし、「これをやれ」と言い、国会議員がそれをやる。ある種、ロボットに私たちが命令をして、その通りやるイメージです。それに対して私たちが代表者を信頼して、お任せする、信託というやり方もあります。

 憲法の規定では、国会議員は命令委任されるものではありません。私たちは、彼らに命令する関係にはなく、信頼して委任をする、信託するという関係にあります。私たちの付託を受けて、代表者は代表としてふるまうべきことを自分自身で判断して発言するというのが、憲法で規定されている関係性です。

命令委任と信託のグレーゾーンを探る

 とは言え、白紙委任でいいのか、任せっきりでいいのかというと、そうは皆さんも思わないと思います。

 そこで出てきたのがマニフェスト選挙です。民主党政権になったとき、ある程度マニフェストという考え方が受け入れられたのは、それまでがあまりにお任せ主義的で、何を選んでいるのかよくわからないし、公約もあやふやだったことに対して、民主党が明確に「私たちはこのマニフェストをやります」と掲げたからでしょう。そのことに対して多くの人が、多少なりの期待を持ったわけです。

 これは命令委任に近い形でした。マニフェストに書いてあることがすなわち契約内容になっていました。こうした契約関係を2009年の選挙のときに、私たちと民主党は結んだので、民主党がマニフェストを履行できなかったときに、多くの批判を受けることになりました。

 あのときに私たちは命令委任関係として代表を捉えていたので、そこから逸脱した代理人はやっぱりダメだ、次の代理人に変えようということになったのです。ところが新しく雇ったはずの次の代理人は、命令委任とはまったく逆の白紙委任として代表を捉えているようなのです。私たちは2009年と2012年で、命令委任と白紙委任という異なる代表のあり方を体験することになったのです。

 実際のところは、極端な命令委任でもなければ、極端な白紙委任でもない、中間のグレーゾーンの中で、適切な代表のあり方を私たちが探り当てないといけないのです。

 どう探り当てるのかというと、選挙だけではなく、選挙と選挙の間に、私たちが代表である人たちとの間に、どういうコミュニケーションが取れるかということが、とても重要になってきます。民主党は2009年のマニフェストが履行できなくて、散々叩かれました。けれども、情勢は変化します。財政状況も変化するし、災害もあるかもしれない。選挙の前に決めたことを全部やったら、それが素晴らしいかというと、政治はそういうものではないはずです。

 多くの有権者も、実はそのように思っていたのではないでしょうか。もっと柔軟な、コミュニケーションを重視した民主主義を、私たちは構想する必要があるのではないかと思います。

「命令委任」「信託」「当事者性」のバランスが大事

 もう一つ重要なのが当事者性ということです。私は女性議員が少ないということを研究していますが、

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