高原耕平(たかはら・こうへい) 大阪大学文学部博士後期課程
大阪大学文学部博士後期課程(臨床哲学専攻)。大阪大学未来共生イノベーター博士課程プログラム所属。1983年、神戸生まれ。大谷大学文学部哲学科卒。研究テーマは、トラウマに関する精神医学史、ドイツ哲学、阪神淡路大震災。最近の論文として、「反復する竹灯篭と延焼 阪神・淡路大震災における〈復興/風化〉と追悼の関係」(『未来共生学ジャーナル』3号、2016年)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
なぜ、原爆とリフトンの話を持ちだしたのか。
それはリフトンを通じて、広島からふたたび「ベトナム」とPTSDに連れ戻されるからである。リフトンが反戦ベトナム帰還兵の自助グループに参加し、かれらと対話していたとき、かれの脳裏にはつねに被爆者のイメージがあった。
かれはベトナム帰還兵についての著書で、くりかえし、「広島が自分の原点だった」と述べている。リフトンは帰還兵たちの語りを、被爆者のすがたに重ねながら聴き、それをPTSDへとつなげたのだった。
原爆に被曝することと、兵士としてベトナム戦争に従軍することはもちろん同じ体験ではない。前者は強烈な熱線と爆風になぎ倒され、戦後もケロイドや原爆症の恐怖を抱えながら生きのびた。後者は、敵の攻撃や爆弾に晒されるが、同時に自ら銃を取って敵を殺しもしていた。
だが、両者に共通している部分もある。すなわち、「死」と隣り合わせとなる苛烈な体験を生き残り、その後も生きる意味を取りもどすことができず、罪責感に苦しむという、人間の根本的な有り様である。リフトンがじっくりと聴きとろうとしていたのは、まさにその根本的な場所から聞こえてくるものだった。
リフトンが広島で被爆者の語りを聴いていなかったらPTSDは存在していなかった、というのは言い過ぎかもしれない。PTSDの理論的な骨格そのものは、第二次大戦時の米兵の戦争神経症の研究に由来するからだ。
しかし、その研究を現代に蘇らせることができたのは、被爆者の声を直接に聴いてゆくという、リフトン自身のヒロシマ体験のゆえである。それがなければ、PTSDが成立していたとしても、微妙に異質なものになっていたかもしれない。「ヒロシマ」はPTSDの隠れた源流のひとつなのである。
日本では阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を大きなきっかけとして「PTSD」がアメリカから「輸入」されたが、
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