長尾龍一VS木村草太 「憲法と、国家と、人間と」
2016年08月15日
この原稿は長尾龍一・東大名誉教授と木村草太・首都大学東京教授が6月14日、ジュンク堂池袋本店で行ったトークショー「憲法と、国家と、人間と」をもとに、両氏が加筆修正した完全版です。
長尾龍一 1938年生まれ。東京大学法学部卒。東京大学大学院総合文化研究科教授、日本大学法学部教授を経て東京大学名誉教授。主な著書に『憲法問題入門』(ちくま新書)、『リヴァイアサンー近代国家の思想と歴史』『法哲学入門』(いずれも講談社学術文庫)、『ケルゼン研究』(信山社出版)、編著に『カール・シュミット著作集(1・2)』(慈学社)などがある。
木村草太 1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て首都大学東京教授(憲法学)。主な著書に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)、『憲法の急所』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)などがある。
木村 みなさん、こんにちは。今日は「憲法と、国家と、人間と」というタイトルでお話しをさせていただきます。もうお気づきの方も多いかと思いますが、このタイトルは、長尾先生の「神と国家と人間と」という著作から引用させていただきました。
長尾龍一先生は、法哲学の大家でいらっしゃって、日本の法哲学界では知らぬ人のいない方かと思います。法哲学に限らず、東洋思想史、西洋思想史等にも非常に造詣が深く、長年、東京大学の教養学部で教鞭をとられた後、日本大学に移られました。今日は「憲法を根本から考える」という趣旨で、長尾先生にぜひお話いただきたいと私のほうからお願いいたしました。今日はどうぞよろしくお願いいたします。
長尾 若き秀英の木村さんは、僕よりも年が半分以下なんですよね(会場笑)。そんな方から突然何か大勢の人の前で話をしろというようなお話をいただいたわけです。もう何しろ77歳ですからね。自分がこんな年になるまで生きてるなんていうこともあんまり考えたこともなかったんですが(会場笑)、ぼけてるかどうかは自分では判断できないし、自分で判断してもはたして判断能力があるかどうかっていう問題がありますから、お手柔らかにお願いいたします。
木村 どうもありがとうございます。きょうは、資料を私のほうで用意させていただきました。冒頭、長尾先生が東大出版会から1985年に出された「アメリカ知識人と極東 ラティモアとその時代」の中から引用させていただきました。ちょっと読み上げさせていただきます。
「今や永遠の青年であった『戦後派知識人』も老い、また狂信とヴェイン・グローリーの危険を身にしみて感じた保守的支配層も老いた。こうして民族的負い目を忘れ、集団的自己欺瞞の失敗の体験ももたない新世代が日本を支配する時代を迎えている」
まさにこれは今の時代によりいっそうあてはまることかと思います。
「このような時期に、グルーのリアリズムやラティモアの義憤を想起することは、一義的でない様々な教訓となりうると思われる」
このグルーやラティモアという人物がどういう人物だったかについては、長尾先生がお書きになった「オーウェン・ラティモア伝」という本に詳細がありますので、興味を持たれた方はぜひお読みいただければと思います。この問題意識を踏まえて、お話を進めていきたいと思いますが、最初にこの「オーウェン・ラティモア伝」という本について、ご説明いただけますか?
長尾 私は占領下に生きた人間として、アメリカの日本占領に非常に関心を持っているんです。どういう発想でアメリカ人がそれをやったのか、とかね。それで1982年から84年にかけてアメリカに滞在する機会があったので、この機会に占領の根本的研究をしてみようと思ったんです。実際には大したことはしなかったんですけど。
まず最初、占領軍の新聞「Pacific Stars and Stripes」に取り組んで、読んでいたところ、1945年10月に幣原喜重郎内閣ができたときに、ハル・マツイという女性が、ニューヨークで講演して、「幣原なんて保守派で問題にならない。釈放されたばかりの解放同盟の人々こそ日本民主化の担い手だ」と言ったという記事が目につきました。ハル・マツイって一体だれだろうと思って調べたら、有名な石垣綾子さんの米国でのペンネームでした。
図書館で石垣綾子さんがハル・マツイの名で1940年に出した「Restless Wave」という英語の自伝を見つけ、それを読んでみたところ、石垣さんのお父さんは物理学の先生か何かですが、母親が早く亡くなって父親が再婚、あまりおもしろくなかったものですから、「モガ」(モダンガール)というはねあがり少女みたいになり、やがて大正期の左翼運動に身を投じて、当時の代表的な左翼運動家たちのいろんな人とつき合ったのです。
特に早稲田の教授であった大山郁夫のゼミに参加して、その当時の進歩的な運動の青年たちと交流した。その中にすっかり仲良くなった男性がいて、一緒に温泉旅行なんかしたのですが、父親も困ってしまった。
そのうち姉さんが外交官と結婚してそのだんな様がワシントンの大使館館員として赴任することになり、それで「お前も姉さんと一緒に行かないか?」って父親がいったんですね。とにかく日本にいると変なやつばっかりとつき合って親に迷惑ばっかりかけるからということで。親の考えとしては外交官なんかと結婚してくれれば素行も収まるしすべてがうまくいくと思ったらしいんです。
それでワシントンに行ったんですが、彼女はその貴族的雰囲気がすっかりいやになった。当時早稲田の先生でマルクス経済学者の猪俣津南雄という人が、渡米した際に、大山先生の紹介状を持って綾子さんに会いに来た。猪俣さんは、ニューヨークで仕事をしている石垣栄太郎というプロレタリア画家と親しかった。石垣さんはハーレムの黒人の労働者が太い腕で労働している絵なんかをたくさん描いてた人ですが、石垣さんに紹介されたら、彼女は、いや石垣さんのほうだろうなあ、彼がもうすっかり彼女に恋してしまった。彼は白人と結婚していたんですけど、彼女と出会ってからはアトリエに寝泊まりして家に帰らなくなってしまった。
そうこうしているうちに、その奥さんから綾子さんに「あんたが来てから私の生活はすっかりめちゃくちゃになった」、「何とかしてくれ」というような手紙が来た。それで綾子さんは石垣さんのアパートを訪ね、夫婦のベッドに二人で一晩寝て、語り明かした。その結果、「あなたの気持ちもわかった。私は身を引く。もうニューヨークを去る」と言ったんだけど、石垣だんなのほうが、「絶対に手放さない」と言って、それで二人はしばらくのあいだ同棲生活して、だいぶ経ってから結婚するんですが。ぼくの占領研究もそんなとこから始まって……(会場笑)。
そのあとに満州事変が起った。彼女は「満州事変は日本の侵略だ」「私は日本人だけども、これは日本が悪いのだ」「この過ちを正させるのが本当の愛国だ」ということで、中国ナショナリズム支援団体に入って、大勢の中国人、中には共産党員も、隠れ共産党員もいたんですけど、その人たちと一緒にアメリカを講演して歩いたんですね。
そこへモスクワから野坂参三さんが派遣されてきた。野坂さんの紹介で、アメリカの「羅府新報」という、アメリカで一番大きな日系の(日本語面と英語面のある)新聞にコラムを持って、満州事変、その他、時事問題について論説を書き続けていたんですが。その「羅府新報」が最近つぶれかかってるっていう話ですが、ーーまあこんなところで時間食ってもあれですから。
長尾 ともかくその石垣さんが、終戦直後ニューヨークで、やはり革新運動を続けていて、講演で、獄中の日本共産党員たちだけが今後の日本の民主主義の担い手だということを言ったわけです。そこで私は在米日本人やアジア人の日中戦争における中国支援グループに関心を惹かれて調べているうちに、オーウェン・ラティモアという人がまさしく中国支援グループの一番有名な論客であることがわかった。それからラティモアの書いたものを次々に読んだのです。その結果として、ラティモアが一番攻撃対象にしたのが昭和7年、5・15事件の直後に、トルコ大使から駐日大使に赴任してきたジョセフ・グルーという、国務省のキャリアディプロマットで……。
木村 グルーについてはぜひ、後ほどくわしくお話を聞かせてください。
長尾 ラティモアによれば、そのグルーが日本の華族やら財閥やの支配層に取り込まれて、彼らをモデレーツ(穏健派)と呼び、この穏健派こそ日本におけるアメリカの友だと主張した。この穏健派は実は、「多少拙速でない軍国主義者」で、他方に「拙速な軍国主義者」がいて、あいまって侵略政策を推進している、と。グルーはその後もずっと彼が穏健派と呼ぶ保守派、権力派を戦後の日本の担い手としてするという路線をとり続け、ラティモアが、終始、それを批判するということになったのです。
木村 ラティモアは天皇の戦争責任にもかなり厳しい態度だったんですよね?
長尾 ええ。昭和天皇自身については、軍国主義のいいなりになっている気の弱い人物と見ていたのですが、天皇制は軍国主義の源泉であり、天皇及び男子皇族、つまり皇位継承権のある人間は、すべて中国に流刑すべきだということを唱えました。
木村 日本の侵略について、アメリカの内部でも実はいくつかの路線があって、そのうちの一つの象徴的な人物がラティモアだということですよね? 親中派ということは、共産主義とも関わりがあるということですから、マッカーシズムの対象にもなるわけですよね?
長尾 彼は積極的な延安派ではなかったのですが、1941年、ルーズベルトがラティモアを蒋介石の政治顧問に送りこんだんですよ。ところが蒋介石とは合わなくて、ごたごたがあり、そのころの蒋介石周辺のアメリカ人たちの一部が、蔣政権の腐敗に愛想をつかして延安の毛沢東を評価し、のちにマッカーシズム時代に攻撃対象になったんです。1950年、マッカーシーが突然「国務省にソ連のスパイがいる、その中心はラティモアだ」って言い出し、それでラティモアがマッカーシズムの一番のターゲットになったんです。実際は、ラティモアって国務省に何にも関係がない、役人でも何でもなくて、在野の研究者・論客だったんですけど。
木村 ありがとうございます。「オーウェン・ラティモア伝」は非常に興味深い人物伝で、長尾先生の選書フェアのコーナーにありますので、ここから先はぜひ著作でお読み下さい。
木村 ラティモアの話に触れさせていただいたのは、占領期の日本というものを見ていきたいからです。占領期の話に入る前に、まず、明治維新から大戦までの歴史について、評価をうかがっておきたいと思います。
1868年から69年は、明治維新や戊辰戦争を経て明治政府が樹立された時代です。日本はその後、1894年からの日清戦争、1904年からの日露戦争、1910年の韓国併合を経て、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件からの日中戦争、1941年の南部仏印進駐から真珠湾攻撃といった形で、大陸への侵略活動を進めていくわけです。
昨年出た、戦後70年談話の中では、満州事変以降、日本は道を誤ったということになっています。私は長尾先生のホームページを見ていて、長尾先生はこの歴史観に対して異を唱えていたと記憶をしているのですが、そのあたりの評価をまず教えていただけますでしょうか。
長尾 異を唱えるというより相対化しているということなんですが。この議論もすれば長いんですけど、司馬遼太郎が「明治国家は健全なナショナリズム」だが、「昭和国家が非合理な決断を繰り返して、日本を滅ぼした。どうしてこんな愚かなことをしたのか」という司馬史観を迫力をもって説いた。これに対しては、明治国家全体が、富国強兵の国家主義からやがて侵略主義に転化していったんで、別に昭和5年から急にそうなったんではないという反論がある。要するに、昭和5年の以前と以後をはっきり分ける見方と、そうではなくて、全体が大きな戦争への流れだったんだという見方との対立ですね。
木村 長尾先生はここで、対中ナショナリズムとの対決を日本人が選んだんだという言い方をされてますが、中国ナショナリズムとはどういうものをイメージしていらっしゃるのでしょうか?
長尾 アヘン戦争に敗れた中国は、南京条約という不平等条約を押しつけられ、そのあと太平天国の内乱があって、ずたずたになっていくわけですね。ところが中国人、特に清朝は、それに対応する自覚というか、どうやって西欧勢力に対して対抗していくかということについて、覚醒が遅れた。それが日清戦争に敗れたことで、非常なショックを受け、どうして日本はあんなに急に強くなったのかっていうことに関心をもった。
当時の一つの標語に「変法」というのがあります。日本が西洋法を導入したことが、西洋の軍事技術を導入したことと並んで、大きく日本を変えたんだということから、そこで変法運動というのが起こります。日清戦争で敗れたにもかかわらず、日本をモデルとしてみようという動きで、20世紀の最初の10年間ぐらい、日本人の顧問を招いて法律をつくったり、日本に留学生を大勢派遣した。このころの日中関係はそんなに悪くなかった。
それがいつから悪くなったか、非常にはっきりは言えないんだけど、やはり第1次大戦開戦直後の21カ条要求が中国ナショナリズムを非常に刺激した。ここから、それまでは帝国主義勢力との闘争の、主要な敵はむしろイギリスであったのが、21カ条問題が起こったところで、日本こそ主敵だということになり、そこから五四運動という大きなナショナリズム運動が起ってきた。日本の側も、それに対する対決姿勢を強めていくということになる。
長尾 その中でも満州問題が非常に大きい。日本は日露戦争において、大勢の青年の血を流して、満州をアジアに確保した、だから満州に対しては、日本は発言力があるはずだというふうに思った。
これに対して、最初は孫文も多少はそれに理解を示したっていう話もあるんですけど、やがて満州を取り返すという運動がナショナリズムの中心になり、それに対して日本は、日露戦争で大勢の青年の血を流してこの土地を確保したということと、それからまたもともとここは清朝時代に、漢民族を入れない特別地域にしていたということも言った。満州族は生命力において漢族に絶対勝てないから、従って満州族を保護しておく地域という趣旨だったというのですが、ここは中国本土と違って諸民族の混住地域だということで、後の「満州国」の「五族協和」というイデオロギーになる。
いずれにせよ、この満州問題でお互いに妥協できず、いよいよ対立を深めていくところから、日中非友好の歴史が進行していったわけですね。
木村 なるほど。そしてこうした中で、中国を助けたアメリカとの大戦が始まるということになります。(続く)
(撮影:吉永考宏)
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