2016年06月28日
日本にいるとキューバのニュースをなかなか見ないし、キューバ人と接する機会もほとんどない。キューバ人はどんな人生を過ごし、何を考えているのだろうか。
今回、キューバで行動を共にしたスサーナさんは日本語が堪能だ。つい2年前までハバナ大学外国語学部日本語学科の教授だった。日本に何度も来たことがある。キューバと日本を知る彼女の人生を聴くと、キューバ人の世界観や人生観が垣間見える。
名前が二つあるのはスペイン語圏ではよくあることだ。しかし、長いのでふだんは最初のスサーナだけを使っている。
5歳になったとき、幼稚園に入った。6歳で入った小学校はコロンビア小学校という名門だ。革命後のキューバでは「兵舎を学校にしよう」というスローガンが作られたが、その第1号となったのが、かつてコロンビア兵舎だったこの学校だ。
小学校4年のとき、革命の英雄について調べてレポートを書く宿題が出た。図書館の本を読み、近所の大人たちに聞いてまわった。
その後は中高一貫のレーニン高校に入った。そこで学んだのがロシア語だ。卒業すると旧ソ連に留学した。自分から希望したわけではなく、当時のキューバでは成績で将来が振り分けられたのだ。
高校でマルクス主義や社会主義思想を学んだ記憶があまりない。主に教わったのはマルクス主義ではなく、マルティ思想だ。キューバ独立の父と言われるホセ・マルティの思想である。社会主義経済や資本主義経済については一般教養として学んだ。
大学は現在のロシア・タタールスタン共和国の首都カザンにあるカザン大学だ。若き日のレーニンも学んだ名門で5年学んだ。専攻したのは近代ロシア文学で、トルストイやチェーホフを研究した。
留学中に、旧ソ連のアゼルバイジャンの大学に留学していたキューバ人と結婚し、首都バクーで娘を産んだ。夫は地質学者で鉱山の専門家となって、今はキューバの隣のドミニカ共和国に単身赴任している。
当時のソ連についてスサーナさんは「ひどいワイロ社会だった。カネを払わないと医者に診てもらえないし、ホテルのベッド・メイクもしてくれなかった」と言う。
1982年にブレジネフ書記長が亡くなったときも現地にいたが、指導者の死をロシア人が喜んでいた。それを見て初めて、ロシア人も旧ソ連の制度を嫌がっていたのだと知った。
キューバに帰国するとハバナ大学でロシア語を教えた。旧ソ連のチェルノブイリで原発事故が起き、被災した子どもと親をキューバ政府が引き取って白血病の治療をしたさいには、ボランティアで通訳をした。
しかし、ソ連が崩壊するとロシア語の需要が減った。そこで国からもう一つの言語を学ぶ機会を与えられた。英語をとることもできたが、選んだのは日本語だ。
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