メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

[9]キューバ人の人生、これからのキューバ

伊藤千尋 フリー・ジャーナリスト

 日本にいるとキューバのニュースをなかなか見ないし、キューバ人と接する機会もほとんどない。キューバ人はどんな人生を過ごし、何を考えているのだろうか。

 今回、キューバで行動を共にしたスサーナさんは日本語が堪能だ。つい2年前までハバナ大学外国語学部日本語学科の教授だった。日本に何度も来たことがある。キューバと日本を知る彼女の人生を聴くと、キューバ人の世界観や人生観が垣間見える。

キューバきっての日本通のスサーナさん=トリニダーで拡大キューバきっての日本通のスサーナさん=トリニダーで 撮影・筆者
 1960年にハバナで生まれた彼女の正式な名はスサーナ・マリア・ガルシア・リベロだ。このうちスサーナ・マリアが名前で、ガルシアは父親の姓、リベロは母親の姓だ。スペイン語圏ではこのように名前・父の姓・母の姓の順に並ぶ。英語のようなミドル・ネームはない。

 名前が二つあるのはスペイン語圏ではよくあることだ。しかし、長いのでふだんは最初のスサーナだけを使っている。

 5歳になったとき、幼稚園に入った。6歳で入った小学校はコロンビア小学校という名門だ。革命後のキューバでは「兵舎を学校にしよう」というスローガンが作られたが、その第1号となったのが、かつてコロンビア兵舎だったこの学校だ。

 小学校4年のとき、革命の英雄について調べてレポートを書く宿題が出た。図書館の本を読み、近所の大人たちに聞いてまわった。

CMで覚えた日本語

 その後は中高一貫のレーニン高校に入った。そこで学んだのがロシア語だ。卒業すると旧ソ連に留学した。自分から希望したわけではなく、当時のキューバでは成績で将来が振り分けられたのだ。

 高校でマルクス主義や社会主義思想を学んだ記憶があまりない。主に教わったのはマルクス主義ではなく、マルティ思想だ。キューバ独立の父と言われるホセ・マルティの思想である。社会主義経済や資本主義経済については一般教養として学んだ。

 大学は現在のロシア・タタールスタン共和国の首都カザンにあるカザン大学だ。若き日のレーニンも学んだ名門で5年学んだ。専攻したのは近代ロシア文学で、トルストイやチェーホフを研究した。

 留学中に、旧ソ連のアゼルバイジャンの大学に留学していたキューバ人と結婚し、首都バクーで娘を産んだ。夫は地質学者で鉱山の専門家となって、今はキューバの隣のドミニカ共和国に単身赴任している。

 当時のソ連についてスサーナさんは「ひどいワイロ社会だった。カネを払わないと医者に診てもらえないし、ホテルのベッド・メイクもしてくれなかった」と言う。

 1982年にブレジネフ書記長が亡くなったときも現地にいたが、指導者の死をロシア人が喜んでいた。それを見て初めて、ロシア人も旧ソ連の制度を嫌がっていたのだと知った。

 キューバに帰国するとハバナ大学でロシア語を教えた。旧ソ連のチェルノブイリで原発事故が起き、被災した子どもと親をキューバ政府が引き取って白血病の治療をしたさいには、ボランティアで通訳をした。

 しかし、ソ連が崩壊するとロシア語の需要が減った。そこで国からもう一つの言語を学ぶ機会を与えられた。英語をとることもできたが、選んだのは日本語だ。 ・・・ログインして読む
(残り:約1533文字/本文:約2805文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

伊藤千尋

伊藤千尋(いとう・ちひろ) フリー・ジャーナリスト

1949年、山口県生まれ、東大法学部卒。学生時代にキューバでサトウキビ刈り国際ボランティア、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧を現地調査。74年、朝日新聞に入社し長崎支局、東京本社外報部など経てサンパウロ支局長(中南米特派員)、バルセロナ支局長(欧州特派員)、ロサンゼルス支局長(米州特派員)を歴任、be編集部を最後に2014年9月、退職しフリー・ジャーナリストに。NGO「コスタリカ平和の会」共同代表。著書に『地球を活かすー市民が創る自然エネルギー』『活憲の時代』『変革の時代』『ゲバラの夢、熱き中南米』(以上、シネフロント社)、『一人の声が世界を変えた』『辺境を旅ゆけば日本が見えた』(以上、新日本出版社)、『世界一周 元気な市民力』(大月書店)、『反米大陸』(集英社新書)、『観光コースでないベトナム』(高文研)、『闘う新聞ーハンギョレの12年』(岩波ブックレット)、『燃える中南米』(岩波新書)など。

伊藤千尋の記事

もっと見る